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徳高38期近況報告



高38期 近況報告
継続は力かも?
 今回、岐山会報の三十八期編集委員へとの声がかかり、徳山高校を卒業して二十年が過ぎたことを改めて実感しました。四十歳前の若輩ものが言う言葉ではないとは思いますが、時の経つのは早いものですね。
 自分は中学時代、文系のクラブに所属していたのですがキャプテン翼の影響も少なからず受けたことで、高校入学とともにサッカー部へ入部しました。中学校では運動系のクラブに所属しておらず体育の授業程度でしかサッカーをしていなかったため高校では大した選手にはなりませんでした。当時の思い出としては多々良高校と対戦し、ハーフウェーライン(コートの中心線)より多々良高校サイドへ攻めることができず一方的にやられたこと。しかし、当時の周南地区で無敵を誇っていた南陽工業を1?0で破り、相手全員を坊主頭にしたことは良い思い出となっています。
 大学入学後も体育会系のサッカー部に入部しました。大学では死ぬほどお酒を飲まされたのが良かったのかどうか、サッカーの方も僅かながら上達し試合にもスタメンとして出場するようになりました。高校時代からディフェンス専門でしたが、大学最後の試合では、先輩思いの後輩からの暖かいパスを受けて1ゴールあげて卒業することが出来ました。
 社会人となった後も地元の化学会社にてサッカー部に入部しサッカーを続けることにしました。学生の時とは異なり仕事をしながらナイターでの練習、試合期となる四月から六月、九月から十月には、ほぼ毎週日曜日、県内のどこかで行われる県リーグで試合をするというハードな日々をこなしてきました。社会人リーグでは高校時代に全国大会に出場した選手と試合をしたり、県代表として中国地方の他県のチームと試合をしたりと学生時代とは違ったレベルで試合をすることができました。仕事の都合でサッカーをやめる人や、体力的な問題(お酒の飲みすぎ?)でやめる人がいる中で気付くと社会人サッカーを十四年続けています。三十一歳の時、チームの事情から監督となり、プレーから離れたこともありましたが不況の影響を受けて新入社員の入社が少なくなるとともに新規入部者が途絶える状況が続き、最近は監督兼プレーヤーとしてピッチに立っています。三十八歳で九十分のゲームをしていると話すと驚かれることも多いですが適度なお酒と日々の運動で、何とか若い選手と同じフィールドに立っています。今の目標は、県1部リーグでの最年長ゴール記録樹立と一日でも長くサッカーを続けていくことです。
 やはり「継続は力なり」なんでしょうね。
(津村 雅昭)



    ♪     ♪

二十年振りにこんにちは
「さようなら、気をつけて」││

高校一年生の春、知り合ったばかりの友人からのひとことは、当時の私には衝撃的でした。徳山高校は、私にとって「街の学校」で、田舎から出てきた身にはそんな挨拶ひとつとっても大人びた感じがしたものです。(ちなみに会社に入って中学時代の友人に出会ったときは「どうでぇ」と言われました。)
 最近は若い人達に「挨拶をしましょう」と言う立場になりました。大学を出てから周南に帰って地元の化学メーカーに就職し、しばらく工場の技術屋さんをやっていましたが、二年くらい前から人事に移って社内研修の運営などをしています。四月の新入社員研修は、ビジネスマナーや会社の規則、工場見学、安全教育…と盛り沢山で、受ける側も仕掛ける側も大変です。これを年間通して手がけておられる学校や幼稚園の先生方には本当に頭が下がります。
 多くのカリキュラムをこなしながら、若者達は少しずつ社会人というものに慣れていきます。しかし所詮は研修ですから、まだまだほんの予防注射に過ぎません。職場に配属となれば父親より年上の人とチームを組むこともあります。相手は外国人かもしれません。そもそも迎える方からすれば、新入社員こそエイリアンであって、一体何を食べるのか、何を話すのかと困惑の眼で見ているのです。
 そうした緊張感を解消する一歩はやはり挨拶です。「溶け込むつもりです」「迎えてあげますよ」。そうした気持ちを示したくて挨拶していけば、そのうち決まり文句だけでは収まらなくなってきます。新入社員の何人かは「挨拶の次のひとことが言えるようになろう」と言っています。今時の若者はコミュニケーション力が弱いという話を聞きますが、コミュニケーション成長力(加速度)は若者の方が大きいのではないでしょうか。研修担当者としては、頑固で大人気ないオジサン達の方が気を遣います。かくいう私も長い技術屋生活ですっかり頑固オジサンになっていました。
 人相手の仕事を避けて化学の道に入ったのに、人相手の業務に就く破目になって、そして、それも良かったと思っています。
 そういえば、高校一年生の春、まだ他のクラスに友達がほとんどいなかった頃、教科書を忘れて途方に暮れていたことがありました。初対面ながら快く貸してくれた○○さん、あの時は本当にありがとう。
(田村 征司)



    ♪     ♪

 現在会社勤務の傍ら、フラメンコアカデミアのプロアシスタントをしております。地元を中心としたライブやステージ活動のほか、東京で開催されるコンクールに出場するなど多忙な毎日を過ごしております。
 岐山通りを車で通過するたびに、徳高の校舎を眺めては、放送部在籍の三年間、渡り廊下で毎日毎日”アーエー…“とよく発声練習したものだなあ‥と懐かしく思い出します。
 女子生徒のスカート丈は、時代とともにすっかり変わってしまいましたが、変わらないセーラー服の「♯」ラインを見ると、二十年前が昨日の事のように眼前によみがえります。
(長嶺 洋子)

    ♪     ♪

徳高に通って良かった!!

 私は今年で三十九歳になります。徳高を卒業させていただいて二十年になります。あっちゅう間ですね!
 実は私は「学校の先生になりたい」と思い、進学校の徳高へ入学すべく、中学校で勉強しました。めでたく(運良く)徳高へ入学できたものの、数学の因数分解で勉強の方がすべて分解してしまい、勉強をほとんどせずまま三年間を過ごしました。ですから私の本当の学歴は「中卒」です。しかし、勉強はできなくとも、いろんな意味で素敵でおもしろく、変な?友達をたくさん作ることができ(男女問わず)、本当に良かったと今でも心の底から思っています。二十年経った今でも定期的に会って、相談事にのってもらう友人もいます。
 実は私、今年の三月末まで旅行会社に勤務していました。当時、旅行会社に高卒で就職できたのも、三年の時の担任の先生が、なんとか推薦をしていただいたからです。おかげ様で、徳高には、二十年間で、同期の中でおそらく私が一番出入りをしていたことになると自負します(仕事の関係で、本当に徳高へ出入りしました。全職員室をまわると一時間以上はすぐ経ってしまいます。)他の学校へも旅行会社の性質上、修学旅行等の取扱の関係でよく出入りいたしました。ですから、私の中学校の時の夢の「学校の先生になりたい」はかないませんでしたが、学校の先生との時間の共有が多くでき、たくさんの先生方と知り合いになれたので、そういう意味では良かったかな!と思います。
 それでは今の私は?と申しますと、今年の四月から徳高の同級生の会社(ドラッグストア)に勤務しています。旅行会社を辞めたのは円満退社です。全く違う分野ですが、日々充実した時間を過ごしています。(仕事はハードですが)
 今、私には妻と三才になる女の子がいます。子供の進路は子供の好きにさせたいと思いますが、できるものなら徳高へ入学してほしいと思っています。自由な校風を味わわせたいです。そして私は大学へは行っていませんが(行けませんでしたが)、高校の時に、生涯つきあえる友人を何人か見つけてほしいと願っています。
 これからの子供達の為にも、そして将来の日本の為にも「徳高生がんばれ!!」とエールを送りたくなりました。この文章を書いていて。
 「いやぁー本当に徳高に行って良かった!!」

(田中 保男)




    ♪     ♪

 徳高三十八期の皆さん、お元気ですか。卒業してから二十年も経つなんて、本当に早いものですね。私は現在広島に住んで丸七年になります。高校時代、「転勤族とは結婚したくない。」だの「スープの冷めない距離に住んであげるからね。」などと母に言っておりましたが、どちらの約束も果たせず、というより正反対の事をしてしまいました。親不孝ですよね。(今更ですが、「ゴメンナサイ。」と言っておきたい。)もう一つ想定外だったのが、主婦である事でしょうか。仕事しながら家族を持つのが夢でしたが、あっさり挫折してしまいました。でも主婦業だって立派な仕事で、奥の深い結構忙しいものです。面白いですしね。小二と年長組の子供がおりますが、昨年度は幼稚園の役員、今年度は町内会の班長です。そして来年度以降、子供会、小学校の役員が続々と回ってくるはずです。半ば開き直ってその状況を楽しんでいる私、年をひろったせいか、悲観的にならず「ナントカナルサ」と思えるようになっています。子供達(姉弟)は、それぞれ個性派でユニークです。母として悩む事、頭の痛む事は当然ありますが笑える事もたくさん。もちろん、落雷もしょっちゅうです。どこにでもいる「ニッポンの母ちゃん」ですね。ただ、そのあたりまえの状況に甘んじて、心も体もたるまないようにしたいと思うこの頃です。次の同期会(オリンピックイヤーに開催予定ですよね?)で、「変わってないね。」と声をかけてもらえるよう努力しておきます。
 今から思いを巡らせても、私にとって高校時代は特別なものでした。語りつくせない、思い出が、いっぱいつまっています。同期生の皆さんに、改めて「感謝」です。ありがとう、きっとまた会いましょう。再会できる日を楽しみにしています。

(岸本 美恵(旧姓 水野))



    ♪     ♪

「活気ある徳山(周南)に」

 高校生だった頃の私のまわりは放課後近くなるとみんな、「今日、まち行く?」が合言葉で徳山の中心街へ行くのが日課でした。
 部活はそっちのけで、少ない小遣いをやりくりして目の前のボーリング場は素通りし、喫茶店やレコード店、書店(本当はほとんどゲームセンターだったかも…)に寄り、時にはオールナイトで映画を観たりと必要なもの求めるものは全てそこにあったような気がします。
 就職し、山口に帰って来てみると商店街のシャッターは降りたままになったり、スーパー等の撤退が相次いだりで街の中心部は”人と店“から”駐車場“が目立つようになってしまいました。地方の中心商店街は衰退が叫ばれて久しいですが、にぎやかだった当時の徳山を知る人間としてはちと寂しい気がします。

(多田 保典)


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