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岐山会報20年を振り返って



岐山会報の思い出
前編集委員長
徳中40期 為貞千速
 今年は岐山会報第二十号が発刊されます。会報の編集に携わった者として、まことに感無量のものがあります。
 顧みれば、昭和六十二年母校野球部が、初めて甲子園に出場した年に岐山会報創刊号が発刊されて以来、絶えることなく毎年発行され続けて二十年が経過いたしました。まことにすばらしいことだと思います。
 さて、創刊号から第八号までは、徳高教員で徳高十一期の田辺恭志先生が岐山会事務局長をされていましたが、岐山会報の編集をほとんど、一人でされました。その文章力、行動力、実行力には大いに感心しております。編集委員会は当時からありましたが、校正の手伝いをした程度でした。編集には携わっていませんでした。
 ところが、平成七年三月、田辺先生は突然転勤されましたので、岐山会報の発行が難しくなりました。ここで会報の発行を途絶えさせてはいけないということで、第九号は暫定的に何とか発行しようということになりました。会報当番期にあたっていた徳高二十七期の福谷正道氏が中心となって、準備の時間もないまま取り急ぎ、第九号が発行されました。おかげで会報も中断されることもなく無事継続することができました。
 田辺事務局長の後任は、徳高九期の門司博文先生が就任されました。新事務局長も会報の発行について、いろいろ心配され悩まれたと思いますが、私に編集委員長に就任するよう要請されお受けしました。早速、編集委員をそれぞれお願いし、編集委員会を開催、全く新しく委員皆で合議して会報をつくることにしました。何かの都合で委員がかわることがあっても、会報の発行に困ることのないようにしました。しかしながら、委員一同会報の編集を実際にするのは初めてのことですので、何回も委員会を開催して話し合い、いろいろ試行錯誤の末、第十号の発行に漕ぎ着けました。
 会報十二号からは、特集記事をということで?瀬戸内少年の絵と青春と??救護看護婦としての日々?のふたつを載せました。また、以前から会報当番期の寄稿を載せていますがこれも特集として扱うこととしました。以後、毎号特集記事を載せています。特に、十四号の特集?海外で活躍する同窓生?では、思いがけず多くの原稿が集まり、さすが岐山会は多士済々であると思いました。
 第十八号から編集委員会に副委員長をおくことにしました。徳高六期の河谷昭彦氏と徳高九期の原田茂氏の二人が就任しました。
 私が委員長として第十号から第十八号まで発行してきました。この九年間委員の皆さんには、献身的にご協力を頂きお陰様で、会報を無事発行する事ができました。委員の皆様や原稿をお寄せ頂いた皆様、広告にご協力頂いた皆様に深く感謝いたします。
【P39に十号当時の編集委員の方々をご紹介しています。】
 第十八号発行の時には私は、満八十歳を越えました。体力、思考力ともに衰退著しく、委員長退任を決意しました。後は、副委員長原田茂氏の尽力で徳高九期の出穂誠一氏に引き継ぐことができました。
 これからも、この会報が途絶えることなく長く続くことを、心から願っています。





『岐山会報創刊の思い出』
初代編集委員長
徳高11期 田辺恭志
 『昭和五十九年四月から母校に勤務し同窓会の仕事をするように依頼されて二年間、同窓会の幹事会・総会・各地区の総会に参加して様子を見てきた。昭和六十一年十一月に正式に責任者に任命され、市内の先輩の方々のお宅を訪問し、挨拶回りに歩いて大変な事を引き受けたものだと言うことが分かった。
 昭和六十二年三月七日、早速開いた幹事会で同窓会総会を母校体育館で行うことが決定した。以来、各期を充実し、上下への良い意味での刺激を与えあうには、どうしたらよいか?  苦労の始まりであった。
 そこで、県内の伝統ある十高校の様子を調べ、防府高等学校同窓会「九華会」の総会を見学に行ったところ、完成された同窓会にショックを受け、二十年の遅れを感じた。
 同窓会を盛んにするには会報を発行し、総会の内容や母校の実情を同窓生に伝え、同窓会名簿を作成し、幹事を各期から出すことが、まず最初にすべきことだと痛感した。
 速やかに同窓会の名称を「岐山会」、会報の名称を「岐山会報」と決め発刊、同窓会名簿作り、校歌応援歌楽譜・歌集解説書・CD盤制作、管理棟校舎内に絵画の展示を実施していった。
 創刊号の三十八頁に『各期への願いごと』として書き残している。
 「試みなければならないのは、山野の間にぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じ合うことだ」
 人間は、大自然を前にしては極めて卑小であり、弱いもの。故に、愛をむさぼりあわなければ生きていけない孤独な存在である。それ故に、人間が闇にともす明かりは、頼りないがこれほど温かく、またいじらしいものはないだろう。人のともす明かりこそは、人の世の愛のしるしであり、救いである。
 私は、今まで天文学を志し、観測所建設に没頭し、夜空にともしびを探し求めてきました。これからは人のともしびを探し求めてみようと心掛けてみます。皆さんの御協力と広い愛を期待し、同窓会の発展を夢見ていきます。・・・
と記載しています。
 また第三号の『会報編集後記』に孟子の「道は爾(ちか)きに在り。事は易きに在り。」を引用している。人は人として行うべき道は、ごく手近なところにある。それなのに、これをわざわざ遠い方に求めていて、身近な人にわりと相談していない。人間関係を大切にしながら話し合って、お互いに理解しあう努力をしていない。と
 会報の原稿をいただいた方への礼状に次のように書きました。会報創刊の目的は同窓生の心の中に秘めた思い出と望みを生きた歴史として残したい。それぞれの生きざまを活字を通して、味わい認め合い、励まし慰めあって、岐山会を育みたいものだと、同窓会の礎を培うために決断したのでした。石の上にも三年と言いますが、ついに第三号を発行する事になり、やっと一つの山を越えようとしています。この志を後輩の諸氏が継承してくださることを祈願しています。そして、この一年間に十一ケ所の各岐山会総会に出席し、多くの人々との出会いにより、それぞれの母校愛に出会いました。在学中に果たし得なかった野球部の甲子園出場を百十周年を迎えるときに果たし、老若、一丸となって人生最大の喜びになったのと同様に、百年後も岐山会報「第百三号」を発行する夢を持ち続ける事は年齢に応じた、”青春の情熱“に価するものだと思えるようになりました。・・・・と記載してあります。
 兼務の事務局責任者として企画したのは、岐山会総会に先輩の講演を入れ、常に新しい着想を求めて、飽きがこない、親睦の和が広がる楽しい同窓会、料理も新鮮で皆さんが喜んでくださるものをと気配りをしたものでした。会場も年々改良し、十年間で出席者が三百人から千人まで一年ごとに百人ずつ増加した。これも体育館で総会を始めたことが良かったこと、昭和六十二年の夏に野球部の甲子園出場で、徳中、徳女、徳高の垣根がなくなり、一致団結出来たことの成果でした。『何事も試みなければ、何も変わらない。ベストを尽くせば不可能なことはない。』と岐山会のお世話に、命がけでベストを尽くしてきたことに誇りと信念を持って生きている。
  現職:岩国短期大学幼児教育科助教授

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