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各期だより---徳高編


九期生の切磋琢磨
■徳高9期  原田 茂

 先般テレビで橋本元総理の急逝の報に接し、我々九期と同年だと直感した。六十八という歳は若いのか年なのか分からない。それだけ我国が高齢化して来たということだろうか。岐山会の当番幹事も今回が最後ということで、逆に同期生は張り切っているようにも感じられる。また今年は岐山会報が創刊二十周年に当たり、編集委員長であり、我が学年幹事の出穂誠一君もその点に気を使い、会報が後輩達にも手にして貰えるようにと色々と会議で意見を集めて来た。二十年前の創刊号では、昭和六十二年の、あの甲子園の出場権を得る迄の軌跡の写真八ページが目に迫る。奇跡の逆転劇という言葉は掲載されていたが、創刊号には詳しい説明を施す時間的余裕がなかったのだ。翌年の第二号には同期の関 雅明君の監督としての喜びの姿や、初戦突破寸前の写真など詳しく掲載されている。八年にして母校を甲子園に導いた関君の功績には改めて拍手を送りたい。彼は母校在学中は中距離ランナーとして、ヤリ投げの中野哲男君と共にインターハイにも出場しており、彼のその前後のスポーツに対する熱意がこの快挙の素となっていることは間違いないと確信している。
 当時野球部も投打の中心をなした今西良雄君(後に立教、日石にて優勝に貢献、現在徳高野球部後援会々長)を初め少数精鋭の選手達が甲子園に王手をかける寸前であった。とにかく九期の運動部はヤリや円盤の跳ぶ狭いグランドや熱気が充満する柔道場や講堂において、皆が県下優勝を狙う意気込みで切磋琢磨していたように記憶している。その中心の体育幹事長はハンドボール部主将の高松正司君(東大へ進学した文武両道の秀才)だった。星井先生のご指導の元、女子も黒田能子(現姓・利根川)さんが主将を務め、見事国体出場を果たしている。県で上位に行けない部は肩身の狭い思いをするような雰囲気が漂っていた。そういう刺激もあってか、勉学に集中する仲間もそれぞれに努力し、頭角を表し、大学卒業後は高度経済成長の一翼を担う者、教育界で活躍する者、医者や経営者を目指す者、立派に家庭を守る者など、何れも徳高スピリッツを発揮しつつ努力して来たと自負しているところです。振り返れば九期生は昭和二十年、国民学校一年生の夏、終戦を迎え、二学期からは空襲警報のサイレンに脅えることもなく伸び伸びと学校に通え、そのころの物不足は、今から考えれば財産のような、貴重な体験だったのです。親や兄姉達の戦災復興の努力を見ながら育つことが出来たことも有難いことだと思う。その後恩師、先輩に恵まれ、明るい青春を過ごし、集中力を養いつつ、社会に貢献して来られたのではないかと感謝しております。そして今、大切なことは、岐山会の名簿を捲り、徳中、徳女の第一回の卒業生より本年卒業の後輩達までを見渡して、先ず多くの先輩諸氏のご功績やご遺徳に敬意を表すとともに、その学ぶべきところと、各時代の学ぶべき点を明確に捕え、それを後輩達にバトンタッチして行くという責務を負わねばならないということだと存じます。勿論、後輩の皆さんからも、若さと新しい感性や実行力を吸収したいと思います。
 そこで今年の岐山会総会では永年放送界で活躍中の同期の森脇幹子さん(旧姓・高柳・現在、日本民放クラブ理事・NHK監修講師、他)の特別の計らいにより現在NHKで活躍中の伊東敏恵キャスター(高四十三期)にも過密なスケジュールの中、東京より駆けつけて戴き、総会の進行を盛り上げようという企画もさせて戴きました。
 最後に、周南の元気をお伝えするために地元経済界で活躍中の同期の藤井英雄君(徳山海陸運送社長・徳山商工会議所副会頭・徳山港振興会々長・他)の、先般の海の日の式典における挨拶の一部をご紹介したいと存じます。?現在、徳山・下松港へ出入りする船舶の数は水島、千葉に続き全国で三番目であり、四番目以降は、横浜、神戸、名古屋と続いています。私の母校、徳山高校の校歌では?鼓海の水は深くして、百船千船入り集い…??と永年歌われて来ましたが、今まさに、我が港はこの校歌の如く年間三万二千隻(一日平均九十隻以上)の船舶が出入りしているのです。今、必要なことは、これらの荷物を上手くさばくために、国際規格の大型トレーラーが東進出来る産業道路の整備が急がれるのです。?
 岐山会の皆様の益々のご健勝をお祈り申し上げます。

「……男どもの四三会誌」を読んで
■徳高12期  中村冨士代

 本誌を読むきっかけは、昨年の岐山会報(第十九号)で「原爆投下から六十周年を迎えて|悪夢の月曜休日とその後」と言う特集記事を読んだことだった。この記事は徳中四十三期の片岡進さんの壮絶な体験記であった。息が詰まる思いで一気に読んだ。生々しい原爆の体験を実に冷静に書かれた片岡先輩とはどんな人だろうかと思った。同窓会誌に掲載されたのみでは勿体ないとも思った。そんな時、片岡先輩の同期の方々が四三会誌を発行されたことを知り是非読んでみたいと思い、既に完売となっていたところを無理して融通してもらった。手にとって、又々驚いてしまった。あの部厚い同窓会名簿と同じ版で同窓会名簿の半分くらいの重さがありそうで表紙には徳山の風景写真がカラーで載せてある。パラパラとめくってみただけで、これは読み甲斐ありと満足したのである。
 先ず「四三会」とは「旧制山口県立徳山中学校第四十三回卒業生の会」の称で、高知の民謡「よさこい節」をもじり、恩師木村武彦先生は「四三会」の先輩の十六年後の徳山高校第十二期卒業の私達の時代にも現職の国語教師であったから奇遇である。「よさこい」の語源は今年のNHK大河ドラマ「功名が辻」の山内二十万石の築城に際して、歌われた木遣りの「よいしょ、こい」という掛け声に由来するとの説があり、同期の人達が「よっさ、よっさ」と集う会であれと願いを込めたものであると述べられている。
 四三会の先輩達が児童・生徒そして学生として過ごされた時代は昭和八年から昭和二十年という、まさに戦争のまっただ中で、今日の私達には想像もつかない暗黒の時代(こういう表現が適切か否か疑わしいが)であった。学園生活を偲ぶべき「卒業記念アルバム」や「卒業記念文集」もなかった由。そこで徳中卒業六十年を迎えられた記念の年である平成十六年に、自分達の生きた証を残すべく、遅ればせの卒業記念誌として本誌を作成されたと記されている。それにしても、御歳七十七歳の先輩方が一念発起してこれ程のものを制作されるとは、流石、我等が先輩と感服するばかりである。この珠玉の一編を少しでも多くの同窓の方々に知っていただきたい。読んでいただきたいという思いで拙い文を書くことにした。
 第一部は詞藻集として、七十編の現存の方々の様々な思いが綴られている。どれも素晴らしい味わいがあり、徳中時代の事、戦争中の事、その後の生き様等読めば読む程興味の湧く内容ばかりである。そして文末には中学時代の顔写真と現在の顔写真が載せてある。この二枚の写真を見比べて、人間如何に変ろうとどこかに昔の面影を残しているという当たり前の事をあらためて痛感した。
 第二部は追慕集として、鬼籍にはいられた方々のご遺族の方等から寄せられた文と亡き級友の追懐や面影に寄せる心温まる文が並んでいる。遺族にとって忘れずに四三会誌に名を連らね、写真や文を載せてもらうだけでどんなにか嬉しい事であろう。そして消息不明の級友四名を気遣う稿もある。当時の写真や資料等が載せられているから、あるいは本誌の発刊で消息が判明するかもしれない。それにしても一五二名の卒業生が六〇年後に僅か四名の消息不明者に過ぎないとは、実に連係というか絆の強さを実感する。因に私共は卒業当時三年三組五三名であったが四六年後の今日、二名が消息不明である。十二期全体では五〇四名中四七人が消息不明と言う。あの混乱の戦中戦後に比べれば問題にはならない平和な時代だったのに……。事のついでに私達の三年三組の消息不明者をご存知の方があったら教えていただくと幸甚である。
 安武礼子さん(岐陽中学出身)
 石丸笑子さん(太華中学出身)
 さて「四三会誌」の第三部は校友会活動(報国団活動)の記録とある。報国団とは何ぞやと思って読んでみると、つまり校友会は現在のクラブ活動や部活のことである。体育系と文化系があったのは今も昔も変らない。明治、大正、昭和と続いてきた訳だが、戦時色が濃くなった昭和十六年には校友会が報国団と改称され、「陸上競技部」「剣道部」等の「部」という呼称が「陸上競技班」「剣道班」等「班」となったとある。時代の移りによって体育系も文化系も様々変遷があったろうが、この時代は戦中下、特に米・英と戦火を交えることになったため、野球等の西欧スポーツが敵性スポーツとして排斥され停止された。それに代って射撃班、銃剣術班、行動班滑空班等といういかめしい名称が登場する。思い出の写真が沢山載せられている、戦火をくぐったものもあるだろうに、よくここまで収集されたものだと感心する。その写真の中に私達の時代にも引続き徳山高校で教鞭をとられた大空清三先生や林寛先生の姿を見ることが出来るのも驚きである。
 第四部は「四三会」の歩みとして、四三会の先輩方の同窓会の歩みを沢山の写真でふり返っている。定着し軌道に乗るまでには紆余曲折があるのは何事も同じで、四三会の先輩方のように戦争をはさんでの人達には私達の場合とは比較にならない困難があったであろう。平成十四年以降は毎年実施との事である。同窓会が軌道に乗り円滑に開催されるためには、必ず誰か核になって犠牲的精神(あまり使いたくない言葉だが)を発揮する人物を要する。旗を振ってくれる人さえ居れば、同窓の固い絆や懐しさを求めて寄り集って来るのは間違いない。四三会にもそんな先輩が複数存在することをかい間見ることが出来る。私達十二期にも安大浩一郎さんという献身的な事務局長が居る。彼のお蔭で同期生の名簿整理や年一回の合同クラス会は整然と行なわれている。
 四三会誌の末尾には豪華な付録がたっぷり付いている。例えば、教育勅語、恩師一覧表、徳山市街地図、楽譜、解説付きの校歌・応援歌、同窓会誌「岐山」からの抜粋、「徳高百年史」からの抜粋、思い出の写真アルバム、「四三会」会員名簿等々である。どれもこれも付録のみでの充分に見ごたえのある内容ばかりである。特に徳山市街地図は昭和十年、昭和十五年、昭和二十年のものが載っており、懐しい町名にお目にかかる事が出来る。そして思い出のアルバムや名簿の中には隣のおじさんや先輩
・恩師の顔や名前を見つける事もあるだろう。実は私の親友のお父さんが当時の教師だった事を本誌で知り、親友に送ってあげたところ大変喜んでもらった。
 とに角、私にとっては近年にない感動の一冊であった。既に完売されたものをどうして手に入れるの…と叱られそうだが、あるいは、藤村公彦・中山義文両先輩等の編集委員の方に問合わせれば読む方法があるかと思う。かく言う私も一冊持っているのでお貸し出来るだろう。その内、中央図書館に寄贈されるのではないかと思う。同窓生でなくても本書を一度手にした人には、懐しい徳山に触れることが出来る程に資料が集められている。言わんや私達同窓生にとっては、単に徳中四三期の先輩の会誌としてのみ見過すにはあまりにも勿体ないものに思える。本書の作成を提唱された岩永先輩の「発刊のことば」の終りに書かれている文言を今一度読み返して、本書に触れた同窓の方々に何かを訴求したい。
 ……先輩後輩諸氏の手にされることがあっても、単に同時代の懐旧の情に止まるだけでなく、当時の事実の発見に驚きの感を持たれるであろう……・
 事実の発見の中に、次の時代に生かさなくてはならない数々の英知や教訓が隠れている事を見逃してはならないと思う。単に時代が違うとか、古臭いとかで一蹴されてしまってはならない。現役の徳高生にも目を通して欲しいと願う事切である。      終



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