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各期だより---徳高編

故きに寄せて
■徳高1期   岩本郁太

 戦後の学制改革により、旧中学校最後の卒業、新制高校初の卒業となったことを、心中密かに誇りに思っている同期会?四十八会?は、その折々の集いの参加者が多いらしい、との評ある処、偏えに平素、肌目細かな配慮を心掛けてくれる大f政平同期会幹事の努力に負う処が大きいと感謝している。六月初旬、原稿用紙を持参して岐山会報に寄稿しろと言う。
 級友多士済々なのに、何も市井の片隅に隠棲しているつもりの俺に振ってくることもあるまいに…?、と恨めしくも思ったが、大f兄が名簿を眺めつヽ思案の末に持ち込んだか?と思えば、貴重な岐山会報には申訳ないが、拙文を記して、引受けた責を免れさせていただくこととした。
?帰夾去兮 田園將蕪胡不帰?と恰好よく極付けて、五十数年振りに故郷?徳山?に帰り住んで五年を経過した。
 僧?月性??男児立志の詩?を引用すれば、?学若無成不復還?と言うも、出郷後五十年、齢古稀をも過ぎれば、俺の?学?もこの程度かと諦観し、?人間到處有青山?とも謳うが、骨を埋むるは墳墓の地でありたい、との願望から帰郷した。朝な夕なの空気の味は格別だし、旧友との再交誼、旧知の方々との出会い等々、全てに何とも故郷は有難い。
 変貌している故郷を半世紀前と比較すること自体nonsenseとは解っていても、古き徳山の街並を思い描いて懐旧の念に馳られるのは、老いたる証拠か?…?…?北に岐山、南に鼓海ある限り方向感覚に狂いはないが、馴染めない町名には、今もっていささか辟易している。
 去る六月十七日、竹重千枝子さんへ?後記メモ?から招待状を頂戴したので、岡山市で開催されていた、
 ?未完の夢 無言館展?
 ?戦没画学生が遺した愛と絵?
を訪ねた。?無言館の展覧会は’〇一年十一月に周南市美術博物館でも催されたので、ご覧になった方も多いと思う?
 未だ完成しない夢を断ち切られて戦場に散られた画学生の絵、彫刻、遺品、が展示されていた。
 中に、徳中先輩、三十一期故松岡俊彦さん、三十五期故久保克彦さん、三十七期故原田 新さん?何れも東京美術学校=?現東京芸大=?卒。久保さん、原田さんは無二の親友であったという?お三方の遺された絵、遺品、が並んで展示されていた。お三方共、?志?半ばに絵筆を投げ擲って、凡そ美術とは無縁の戦場に赴き還らぬ人となられた。
 とりわけ、原田 新さんは、小澤丁?現在はこの町名もなく、道幅のヤケに狭く感じられる道筋だけは残されているが…?、また丁の字を使う町名も見当たらない。昔、一??三番丁、中ノ丁、本丁、西ノ丁、鐘楼丁、小沢丁、と結構あったのだが…??私の生家の向い側原田屋?私の家では常にこう呼んでいた…?原田醸造場=?現、1はつもみぢ?のご長男で、私にとっては幼少年時大変可愛がってもらった忘れ難い方であり、展示されている遺作や遺品の数々に接すると涙止まらず周囲を構わずハンカチを眼にする。現在ほど勝手気儘な?思想の横行が許されない時代、?國の大事に殉ずるべし?と個人の感情、思想を無にし全てを捨てて、戦場に赴かれたであらう心情の純粋さは、昭和十八年九月八日着とされる父君宛ハガキ?同年八月戦死二十四才とされているので没後に届けられたことになり、その故に絶筆となった?の末尾四行に表現されている。
『前文略…?
 陸海ノ戦局益々重大性ヲ加フル今日生還ハ期シ難り
 生命全テヲ投出シ 君國ニ報ズルノ覚悟ニ御座候
 現在 心境鏡ノ如ク何モ思ヒ残ス事無之候
 何タル幸カト存居候  敬具』
 ハガキによる短い文章に万感の思いを込められたであらうことが伝ってくる。戦後六十一年を経た今日も尚消え去ることなく痛恨の念を禁じ得ない。昨今見聞する靖國神社問題、愛國心函養、教育問題、憂うべき社会現象、等を絡めてみると色々考えさせられる。
 嘗って、フィレンツェ、ウフッツィイ美術館で「ヴィーナスの誕生」を前にして、遥かここまで来て現物に接することが出来たかとの思いもあって鳥肌立つ感動を受けた覚えがある。同時に、新兄さん(私は原田新さんをこう呼んでいた)の面影が頭を過った。
 ボツティチェリに限らず数々の名画は絵を志した新兄さんにこそ見てもらいたかった。かく思う人は、この様な機会にも恵まれず今は亡しと。平穏泰平の現在が幾多の先人の尊い犠牲の上にあることに思いを至せば、世界中が近くなったばかりに、単なるsight.seeingにノコノコ出掛けて行くことに相済まなさと恥しさを感じ反省もさせられた。今夏孫を道連れに?中國?行を企画中、故きを温ねて漢詩の一節でも思い浮べ乍ら歴史のほんの一部でねも勉強して来ようと思っている。同行を強いられる十才の孫娘は言う、?おじいちゃんと行く旅行は何時もお勉強ばかり…??と。

「メモ」竹重千枝子さん、徳女二十五期 原田新さんの妹さん。

追記 私事はさておくとして、徳中先輩にこの様な方が居られたことを岐山会報誌上に紹介することが出来て満足。
 八月十三日の岐山会総会では今年も銘酒?初紅葉?が卓上に並べられることだろう。杯を傾け乍ら思い出を新にしたいと思う。


まど・みちおの世界
■徳高3期  澤田小惠子

 誰もが知っている「ぞうさん」や「やぎさんゆうびん」などの童謡をはじめ、宇宙にある総てのものの存在と価値を等しく受けとめ、深く鋭くそして優しいまなざしで詩をよむまど・みちおさんは、現在九十六歳、ふるさと徳山の宝です。勝手に徳山がふるさとなどと申しましたが「まどさん」は遥かな宇宙をふるさとに、生かされていることの素晴らしさを詩にしておられます。
 明治四十二年、西辻で誕生され、多感な少年期を過ごされた徳山は「まどさん」の詩の原点と言われております。自然との交感、小さなものやかすかなものへの優しさと思いやり、淋しさと畏れ、そして母への渇望など…
 昨年(平成十七年九月)徳山女性団体連絡協議会設立二十周年記念事業として「まど・みちおの世界」絵画展と詩の朗読会を、周南美術博物館で六日間開催しました。
 平成四年、美智子皇后英訳「THE ANIMALS(どうぶつたち)」日米同時出版。平成六年、日本人初の国際アンデルセン賞作家賞、平成十五年、日本芸術院賞受賞等、国内外を問わず高く評価されている「まどさん」の詩の世界を、その心を今こそ皆様にお届けしたいと企画したものです。
 予てからの念願が叶い、五月、川崎市のM喫茶店で「まどさん」と対談、ビデオ収録もさせていただきました。
 「徳山は忘れようと思っても忘れられない」と微笑まれ、東川では上ってくる細い小さいうなぎを冬の寒い時に飛び込んで手で掬ったことや、おじいさんが鉄砲でカラスを撃ったことを少年の瞳で、お供して下松までテクテクテクテク歩いて行ったこと、砂浜で貝殻や小さな生きものを見つけたこと、家族が台湾に行かれ一人残された淋しさや、その時置いてあったまんじゅうへのおもいなど「色々なことを思い出しますネ!」「あー懐しいですネ!」と昨日のことのように目を細め、思い出を手繰り寄せて話して下さいました。
 「東川が徳山を思い出す一番根元にあるような気がする」と言われた時、「まどさん」の詩の原風景は徳山の自然にありとの説を、改めて自身で受けとめて心が震えました。
 素人の拙いインタビューに、穏やかにお人柄そのままの誠実さで、ゆったりと時にはユーモアたっぷりに応答して下さり、好きな絵は抽象と、きっぱり。終始笑顔の寿美夫人は楽しく会話に味つけしていただき私には宝物の時間でしたが、お二人にとって、一時間余の収録はさぞお疲れになったことでしょう。案じる私達に深々とごあいさつされ恐縮! 感謝の気持ちいっぱいでお見送りしました。
 「まどさん」の詩は、ずうっと前から私の傍にあって、声に出して詠むのがクセであり幸せのひとときなのです。
 朗読会を開催するにあたり、七十年前の「雨ふれば」「ランタナの籬」から、一昨年出版された「たったった」の詩集迄、約千三百作品、散文詩も含めて全作品クセに従いました。何れも優しく、深い味わいのある作品郡の中から、今回朗読する二十数作品を選ぶことは、苦しくも楽しい作業?でした。改めて全作品を味わう機会を与えていただいた事に心からありがとうございました。
  深い夜

あばらに手を置けば
深い夜である

生きて
年齢をもち形をもち血さえ流れている自分である

あばらの数は
ひとつひとつ深い夜である

生きて
しみじみと女でない自分である

あばらの中のかそけさは男の
深い夜であるのか

生きて
限りなく他の人でない自分である


古稀を迎えて
■徳高7期  佐古宣道

 七期の私たちは古来稀なる年を迎える羽目になった。長くもあり、短くもあり感慨一入である。私たちは、戦争の悲惨さ、戦後の貧困生活や食糧難も身をもって体験でき、戦後の惨憺たる荒廃の中から、欧米先進国を必死で追いかけるキャッチアップ型の経済システムにより、GNP世界第二位に達するという奇跡的な経済成長を駆け登った道のりを併走することもできた。人類の永い歴史の中でもこの数十年に、科学技術の進展に伴い日常生活での諸々の利便性は格段と充実されたし、グローバルな情報環境の変革などはめまぐるしく追いかけるに息絶え絶えであった。上り坂の社会を先人たちが想定もできなかった事を見聞しながら、喜怒哀楽とともにどうにか潜り抜けた、得がたい人生であったともいえる。だが、この間には、消えたり、失った事象も数え切れない。四季の移ろいの中での日本の原風景、行事、日本人としての品格、人情、日本語独特の表現などである。
 近年は、食料、資源、エネルギー、環境などについて繁栄の影の部分が浮き彫りになってきた。上り坂は体にきついけれど、夢と希望があるが、下り坂は楽に見えて、実は足腰と特に膝に過剰な負担をかける。本世紀の後半での日本の姿と在り様については私たちの年代からは、懸念することも多々挙げられる。東海の小島に戻らにいよう祈りながら、年寄りの戯言といなされつつも、折に触れ発言だけはしておきたい。
 明治四十四年山口生まれの日野原重明先生とはね六年間毎年会する機会があった。某有名ホテルの夕食をほとんど食されず、その理由について、高齢者の体には最低限のエネルギー摂取で十分、過食は習慣病になりますよ。と説明された。七十五才になったら、「新老人」になりなさい。「戦後の貧窮、粗食も、健康には悪くなかった」し、「死ぬ瞬間まで人生の現役たれ」と喝破されている。
 お互い自愛して、いま少し頑張りたいものです。


はじめて書展を開催して
■徳高8期  城所圭子

 子供の頃から絵を描いたり書をかいたりするのは好きでした。子育ての一段落した頃、自分の自由時間に何をしようかと考えた時、「書」なら家にいて一人静かに楽しめると。本格的に尊敬できる師について書道を始めて三十年余、公募展に出品して賞を得ることが主流の中にあって、ひたすら趣味だけに徹して続けてきました。
 古稀も目前になり、ここらで人生の集大成として書展を開くことにしました。長年同じ教室で学び切磋琢磨し一緒に旅行もしたりする女性の仲間七人で、東京銀座鳩居堂画廊(日本の一等地?)にて「隆玄女流七人展」を開催しました。
 初日から在京の八期の友人が多勢お祝にかけつけてくださり感激
!わざわざ徳山から観に来ていただいたり、丹精したお花を届けてくださったり、それはそれは有難くうれしく思いました。作品もご好評いただき晴れがましい気持ちでいっぱいです。皆さんに観てもらうことがこんなに楽しくうれしいものだとは!思いきって書展を開いてよかったなあと感じています。
 これからも、読める書、自分独自の書をめざして、楽しんでいきたいと思っています。




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