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各期だより---徳女編

モロッコがんばり紀行
■徳女25期   国光一江
財布の底をはたいて、年一回海外旅行を楽しむのが私の最高のぜい沢です。
 二月、モロッコの旅行案内を目にして即座に申し込みました。
この年令で?この体力で?と考えたのは後の話。向こう見ずな瞬間の決断でした。
 モロッコ旅行のことを友人に告げると、「えっ、モロッコ?」と、驚きとも無茶な!ともとれる反応が返ってきます。まだ日本人にはなじみの薄い国なのか情報も十分に手に入りません。不安が次第につのります。今更キャンセルもできないしと、軽率さを悔いる気持ちさえ頭をもたげてきました。
 いよいよ出発の日。関西空港に集まった一行は四十二名の大集団。同年配の女性の姿も数人見えて急に元気が出ました。往路二十時間を超える空の旅でようやくカサブランカ着。更にバスで三時間。宿到着は深夜。毎夜の睡眠時間は三?四時間、バスの中ではほとんど眠り続けるのが毎日のパターンでした。
 しかし、見学場所に着いた途端、パワー全開。目もぱっちりです。中世そのままの雰囲気に酔い、独特の文化遺産に目をみはり、夢中でシャッターを押し続けます。橋のない河も石伝いに渡りました。フェズでは、雑とうの迷路を、ロバをよけながら歩きました。アトラス山脈を縫うカスバ街道の絶景には、ずっと車窓にくぎ付けでした。日の出を目指して歩く暗いサハラ砂漠、何度も砂に足をとられて案内のおじさんをてこずらせました。
 「のど元過ぎれば熱さを忘れる。」とか、強行軍に悩まされたことなどいつの間にか忘れて、今は無性にモロッコの旅が懐かしいのです。「年寄りの冷水。」の名文句を思い知らされたような旅でしたが、数々のハプニングも今は笑いの種。年不相応な旅をがんばり通した八日間のファイトに乾杯です。


平戸の人
■徳女30期   皆本信子
 久しぶりに、日曜日昼の「のど自慢」番組を途中から見ていますと、長崎県の平戸市からでした。ふと二十数年も前の事を思い出したのです。私にとって平戸と言えば、その事と結びついてしまいます。それは、嫁ぎ先の娘の所から新幹線で帰徳の折の車中でのことですが、私の席の前に一人の色の浅黒い青年が腰掛けてきました。その時の席は向い合っていました。暫く経って、娘がくれたお菓子を出して、前の彼に差し出しました。彼は顔をほころばせて、心よく受け取り、そのあと、車中販売の人からコーヒーを買って私に一つ下さったのです。それから少しずつお互いに話をする様になりました。私にも未だ大学に行っている息子のいる事を話しました。彼は、某大学を卒業してこれから帰郷し、平戸の市役所に就職するとの事でした。そして反対側の一つ前の席に、お年寄り(御父様)と年配の女性(御姉様)とが座られたのを見ました。話している中に解ったのですが、卒業を期に、都内名所を案内されたとの事でした。御病気がちなのか和服での御父様は、如何にも素朴な田舎の方という感じでした。東京見物を若い息子さんが、附添った御姉様と親御様を案内されただけでも、親孝行なその優しさに感心しました。
 学費はバイトで捻出し、一年休学して色々なバイトをしながら、ドイツで勉強して来たお話を聞き、その頑張られた御様子に、「やる気のある若者も居る」と我が事の様に嬉しく思いました。御姉様が大阪在住とかで、三人大阪で下車されましたが、今時、この様なしっかりした青年に出逢い、心から感動したのです。
 その後、旅行で平戸の松浦史料館等に行った時に、「あの人は元気に活躍しておられるだろうか」とお逢いしてみたい気がしました。先方は、覚えておられぬ事でしょうが。
私には、歳月を経ても、あの時の事が、何故か、懐かしく思い出されて参ります。


エア・メール
■徳女31期   柳 曄子
 しのぶさんと最初に出逢ったのは、一九九三年の秋、上京する時の新幹線の中でした。
 丁度隣あわせの席で持ちあわせのハーブキャンディーを一つ差上げたところ、お返しに、きれいなセロファンに包んだアメリカのキャンディーをいただきました。彼女は広島出身で家が焼かれたのでお姉さんを頼って渡米し、カリフォルニア州に住んでいるとのこと、私の読んでいた『人間医学』と言う本が気に入って送ってあげる約束をしました。
 誌代は一年分の前払いなので、その代り、USAのサプリメントと交換と言うことにきまり、手帳にアドレスを書いてもらい帰宅して手続きをすませました。
 十二月十六日付のエア・メールが届き、雑誌が着いたと喜んでの第一便でした。しばらくして郵便入れに丸い筒状の航空便が届きました。それから文通が始まり、季節のこと、家族のこと、お風呂場ですべって全身打撲になったことなど。最初は、エア・メールの宛名をたどたどしく自分で書いていたけれど、何しろ大変なので子供や、孫達にまとめて何枚も書いてもらっておきました。

 五年位前にサンフランシスコでコンベンションがあり六日間の中、お逢いしましょうと言うことになり、くわしい日程を知らせました。

 出発の前日は国際電話を十七時間の時差を計算してかけました。

 ホテルへは午前十一時頃に着かれ、しばらく振りで髪が真白なのに驚きました。
 今年になって思いがけず、広島へ被爆手帳の申請にくるとの知らせで大喜びしました。
 アステルプラザで再会し、神田山荘に一泊して、温泉で背中を流しあいました。
 三十八通目のエア・メールが五月二十四日に届きました。


今がしあわせ
■徳女32期   加藤幸子
 私は喜寿を迎えました。いつの間にこんなに年を取ったのだろううと、同級生とよく話します。戦前戦後を生き抜いて来て、たいした病気もせず健康に過せたこと、あの極貧の粗食もわるくはなかった。米、砂糖はもちろんのこと、塩も不足していた。あのギリギリの生活が健康には幸いしたのではないかとも思っている。長く生きていると、いろいろな事に出合います。全く違った環境に入り、結婚生活五十年の間には喜びも悲しみも沢山ありました。

 一番の哀しみは、二十年前に子供を亡くした時でした。つれあいを亡くし十年余になりますが、いろいろな事情や事件で、生活は一変しました。住む家さえ失ってしまいました。随分悩み死を考へた事もありました。眠れなくて睡眠薬をのみつづけていました。その頃ある整体の先生に出合い、とにかく薬や睡眠薬は全部やめなさいと言われ、不眠の日が何日か続き、体重はどんどん減って行き、三十五キロになりましたが、その治療のお蔭で除々に心身共に回復のきざしが見えはじめた頃のある日、早朝目が覚め床の中でラジオを聞いていて日野原重明先生のお話を聞き感動しました。世の中には、こんな素晴らしい考え方の人も居られるのだと…それから先生の著書を読み講演会を聴きに行き先生の提唱されている「新老人の会」に早速入会しました。会のモットーである「愛すること」「創めること」「耐えること」全く共鳴致しました。
 先生は、老いるという事は年齢を重ねることではない、希望や生き甲斐がなくなった時に老いるのだともおっしゃいました。
 今日こうして元気に生きさせて貰っている事は、神佛の御加護であり、御先祖の導き、又支えて下さった沢山の方々のお蔭と、深く感謝して居ります。人生の終盤に入り、少しでも人様のお役に立てたらと思うこの頃です。人生のギリギリまで考え、感じ、働ける人間でありたいと願っています。きっとそうなる事を念じ信じて居ります。今が一番しあわせ、この先もずっとささやかなしあわせがあることを信じています。

回 想
■徳女33期   木村京子
 「今年のささの会は大津島の回天に行くことになったよ。」おさそいの電話がありました。
 桜花満開で私達の喜寿の年をお祝いしてくれるかのようにお天気にも恵まれました。
 ふれあいセンターでの昼食は、まず物故者のご冥福をお祈りして、ささやかなお弁当の会食となり、学生時代に戻り賑やかな話がはずみました。
 回天記念館ではスライドと説明をいただき全国から志願してきた二十歳前後の若い予科練生や生徒さんが人間魚雷として特攻出撃され、帰らぬ人となられた当時のことを思い、胸がいたくなりました。

 そして、私達の六十余年前の学徒動員の頃がよみがえってきました。軍属として被服廠の縫製、日本製鋼所分工場での日夜四交代、油まみれで軍の砲弾づくり、その間も空襲警報におびえる日々でした。

 原爆投下。一瞬にして焼野原となり、同期の友達、先生、建物疎解作業中の一、二年六百余名が被爆死、多くの犠牲者が出ました。
 あと半年で卒業というときに、家も焼け出され、身一つで郷里の山口県に帰ってきました。
 転校した徳女も戦災で校舎はバラック建、床は土間、まん中に通路が一つ、雨が降れば雨もりがする状態の教室でした。
 バレー部に入部して、放課後友だちと練習することが唯一の楽しみでした。時間ぎりぎりまで練習するのでいつも駅まではかけ足でした。今思えば、河村さんをはじめとして、バレー部のお友達、岩徳線通学のお友達にお出会いしたことが、ささの会へ出席して旧友を温めることにつながっているように思います。
 喜寿の年をささの会のみなさんとお祝いできたことを大へん嬉しく思い、再会を約束して回天をあとにしました。



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