徳高38期の近況報告に寄せて
徳高38期の近況報告に寄せて
徳高38期生の皆様へ徳中38期の先輩の尊い体験談をご披露し、皆様が
温故知新の精神により益々のご発展をされますようお祈り致します。
岐山会報編集委員会
 岐山会報では毎年卒業後20年の期に、その思いを発信して貰っています。今年は徳高38期が担当に当たります。日常、同期の横の交流は活発に行われても、永い歴史の中の縦の交流は困難なようです。そこで今年は高38期から見れば半世紀近くも前に卒業され、更に過去の戦争において、戦場より九死に一生を得て生還された徳中38期の豊島?テシマ?清様のご体験を、お許しを得て、陸士関係の会報に昭和16年3月に投稿された原稿を掲載させて戴きました。
 我が岐山会報の20号までの記事の中には、過去の戦争において犠牲になられた数多くの先輩達の姿が紹介されて来ましたが、平和の時代に生きる私どもは、この尊い犠牲やご苦労を決して忘れてはならないと思うのです。命の尊さを思うという観点からも、是非皆様方のこれからの人生において、心の片隅に留めておいて戴きたいと思います。
 この会報や年一度の総会・懇親会は縦の交流の可能な機会であり、活発な交流により母校の歴史を若い世代に繋いでいき、岐山会の隆盛にも寄与することと思います。会員の皆様の積極的なご参加をお願い申し上げます。


地獄の戦場に咲いた人間愛
陸士55期
徳中38期 豊島 清
昭和19年3月12日、必勝を期して開始されたブーゲンビル・タロキナ作戦の第一次攻撃において、我が6D45i第3中隊も約30名の将兵の死を賭した果敢な攻撃にも拘らず、遂に失敗に終って12日の深夜、何とか兵力を纏めて後退した。各人が蛸壺を掘って再攻撃の準備をしていた時、13日の午後に至り、それまで連絡が途絶えていた聯隊本部と有線が通じた。
 早速聯隊長から?第一線の状況が全く不明で困っているから直ぐに来て状況を報告せよ。そして明日の攻撃のため君が誠を尽くして護った軍旗に最後の別れをせよ?との命令である。側に居合わせた渡勇吉兵長を連れ、直ぐに帰隊出来ると思って直ちに出発した。
 途中は有線を辿りながらであったが、数日間の激しい弾幕砲撃に加えて、定期的に撃ち込まれる艦砲射撃によって、あれ程鬱蒼としていたジャングルは薙ぎ倒され、天空には何の遮蔽物もなく、大きな倒木の間を敵機の攻撃の合間を縫って、予想以上の時間がかかった。漸く聯隊長に報告が終った時は既に夕闇が迫っていた。
 丁度その頃、私は第一次攻撃の際に受けた左腕の痛みが急に激しくなり、何とか聯隊本部で手当は受けたものの、激痛は益々増すばかりで見る見るうちに左腕はドス黒く腫れあがっていき、高熱と苦しみのため、その夜は遂に中隊に帰ることは出来なかった。一晩中、物凄い痛みに悶え苦しみ乍ら、その夜は和田操聯隊旗手の壕の中で一夜を明かした。
 明くる14日朝、聯隊本部に来られた衛生隊の永原軍医大尉がこの様子を見られ、既に腕全体が瓦斯壊疽を起しており、このままに放置しておけばあと一日の命、その間の苦しみを見るに忍びない。少しでもその痛みを柔らげることが出来ればと、何の設備も器材もない砲爆撃の最中に、肩や背中にまでメスを入れて悪い血を出し切るような最大限の手を尽くしての切断手術をして下さった。医者としての人間愛の素晴らしさを感じた。
 勿論、麻酔もなく、止血も充分に出来ず、骨は持ち合わせたナイフで切ったとのこと。私も何本目かの神経を切るまでは覚えていたが、出血多量で遂に意識を失い、深い昏睡に陥ってしまった。だんだんと意識が朦朧としていく時、愈々これで死ぬのかと思うと、中支で小隊長をした時以来、生死を共に誓った中隊の人達と離れてしまったことが残念で仕方がなかったことを、今でもつい昨日のことのように思い出す。
 元気な者でも生きることの覚束ない当時の戦況、通常であれば私の生命はここで終っていて当然である。ところが、その時私に伝令としてついていた渡兵長の捨身の人間愛は私の運命を大きく変えてくれたのである。彼は壕の中で意識を失っている私を何とか蘇生させようと、自分自身の生きることを忘れて、彼の最後の生命を託した僅かな携帯口糧までも使い果し、来る日も来る日も片時も側を離れることなく、何度か自分の命を弾雨に曝し乍らも看護の限りを尽くしてくれたのであった。
 その間、第二次、三次、四次と激戦は繰り返され、我が第3中隊の将兵は殆んど全滅してしまった。聯隊長は24日に至り、残った将兵を集めて軍旗と共に敵飛行場に突入を決意されたが、師団命令により攻撃中止が決まり、数日後には、再攻を期してタロキナからの撤退が決まったのであった。
 丁度その頃、1週間に亘って昏睡状態の続いていた私は渡兵長の献身的な誠が神に通じてか、奇跡的に意識をとり戻すことが出来たのであった。然し一週間の絶食で、体力は極度に衰え、とても起き上れる状態ではなかったので、ラルマ川を渡るまでは、何度も転落し乍らも担架で運ばれたが、ラルマ川を渡ると道は狭く険しく、担ぐ者とて体力はなく、遂に自分の力で歩く以外に退る方法がなくなり、どうしても歩けない者に自決用の手榴弾が渡された。それからの彼の行動は言語に絶するもので、今でも私の脳裏から離れることはない。
 何しろ、切断後、満足に包帯交換も出来ず、傷口は化膿し、膿は滴り、蝿がたかって蛆が湧き悪臭がひどく、とても生きた人間とは思えない様相であった。思えばこのタロキナーヌマヌマ道は、3ヶ月前、我が第3中隊が支隊前進のため、今次作戦に先立って、道とは名ばかりの獣道のような間道を、幾度か敵の襲撃を受け5名の戦死者を出しながら開拓した道であった。何しろ峻険な山々を縫っての間道で、元気な者でも苦しい道程であった。少し歩いても疲労困憊その極に達し、暫く休んでは立ち上って、また歩くという繰り返しで彼の苦労は更に大変であった。極度の栄養失調症の上にマラリヤの発熱も加わり、もう動けなくなった私の体を支え、肩を組み、急坂にかかれば後を押し、遂に負傷者集団からも脱落してしまった。夜になれば道端に横たわり、スコールが来れば一枚の天幕を共に被り、飢えればジャングル野菜をあつめて喰み、渇けば谷まで下りて水を汲み、励ましあい、助けあい乍ら死なば諸共と、幾度も自決用の手榴弾を意識しながらも最後まで諦めることなく悪戦苦闘の末、遂にヌマヌマの第94兵站病院に辿り着くことが出来た。
 兵站病院とは名ばかりで、何とか最小限の治療は受けたが、ジャングルの中でゴロ寝であった。それでも彼のお陰で、芭蕉の葉で上を覆って雨露だけは凌ぐことが出来、また僅かではあったが、食料も支給され、逐次体力も回復して来た。
 1日も早く中隊に復帰したい私は、何日かをそこで過し、再びキエタに向って歩き出し、生きて再び懐かしいキエタの岩山の第3中隊に復帰したのは、端午の節句の5月5日の夕刻であった。中隊の殆どの者は私が戦死したと思っていたようで、お互い手を取り合って再会を喜び、本当に感激した。
 戦後、長らく消息すら知ることが出来なかった渡兵長が昭和48年頃、大阪に居ることが判り、早速、戦傷の為片手不自由な彼を訪ねた時、奥さんから?主人は何時も俺の生命があるのは中隊長のお陰である。意識を失われたのを何とか助けようと無我夢中で必死になっている間に、中隊の戦友達は殆ど戦死してしまった。若し途中で中隊長を見捨てていたら、当然多くの戦友達と運命を共にしていた筈である?と話していると聞いて、益々彼の人間性の素晴らしさと、更には人というものは我身を捨てて人の為に尽くしてこそ自分もまた生かされるものであるという人の世の掟のようなものを感じたのであった。
 今、私の人生80余年を振り返って見て、ブーゲンビル島での戦闘は本当に苦しくも悲惨なものであったが、あの極限の中でも、幸運にも彼のような素晴らしい多くの方々にお会いすることが出来たことは本当に嬉しく、皆様のお陰で今の人生があることを心から感謝すると共に、今後の残された人生を、当時、祖国の発展を願いつつ、家族に万感の思いを残して亡くなられた多くの方々の為にも、少しでも社会のお役に立つ人間にならなければと、思う昨今である。






岐山会ネットにて更に多くの記事を読むことができます
http://www.kisankai.net

この記事が掲載されているURL:
http://www.kisankai.net/modules/sections/index.php?op=viewarticle&artid=6