各期だより---徳高編
故きに寄せて
■徳高1期   岩本郁太

 戦後の学制改革により、旧中学校最後の卒業、新制高校初の卒業となったことを、心中密かに誇りに思っている同期会?四十八会?は、その折々の集いの参加者が多いらしい、との評ある処、偏えに平素、肌目細かな配慮を心掛けてくれる大f政平同期会幹事の努力に負う処が大きいと感謝している。六月初旬、原稿用紙を持参して岐山会報に寄稿しろと言う。
 級友多士済々なのに、何も市井の片隅に隠棲しているつもりの俺に振ってくることもあるまいに…?、と恨めしくも思ったが、大f兄が名簿を眺めつヽ思案の末に持ち込んだか?と思えば、貴重な岐山会報には申訳ないが、拙文を記して、引受けた責を免れさせていただくこととした。
?帰夾去兮 田園將蕪胡不帰?と恰好よく極付けて、五十数年振りに故郷?徳山?に帰り住んで五年を経過した。
 僧?月性??男児立志の詩?を引用すれば、?学若無成不復還?と言うも、出郷後五十年、齢古稀をも過ぎれば、俺の?学?もこの程度かと諦観し、?人間到處有青山?とも謳うが、骨を埋むるは墳墓の地でありたい、との願望から帰郷した。朝な夕なの空気の味は格別だし、旧友との再交誼、旧知の方々との出会い等々、全てに何とも故郷は有難い。
 変貌している故郷を半世紀前と比較すること自体nonsenseとは解っていても、古き徳山の街並を思い描いて懐旧の念に馳られるのは、老いたる証拠か?…?…?北に岐山、南に鼓海ある限り方向感覚に狂いはないが、馴染めない町名には、今もっていささか辟易している。
 去る六月十七日、竹重千枝子さんへ?後記メモ?から招待状を頂戴したので、岡山市で開催されていた、
 ?未完の夢 無言館展?
 ?戦没画学生が遺した愛と絵?
を訪ねた。?無言館の展覧会は’〇一年十一月に周南市美術博物館でも催されたので、ご覧になった方も多いと思う?
 未だ完成しない夢を断ち切られて戦場に散られた画学生の絵、彫刻、遺品、が展示されていた。
 中に、徳中先輩、三十一期故松岡俊彦さん、三十五期故久保克彦さん、三十七期故原田 新さん?何れも東京美術学校=?現東京芸大=?卒。久保さん、原田さんは無二の親友であったという?お三方の遺された絵、遺品、が並んで展示されていた。お三方共、?志?半ばに絵筆を投げ擲って、凡そ美術とは無縁の戦場に赴き還らぬ人となられた。
 とりわけ、原田 新さんは、小澤丁?現在はこの町名もなく、道幅のヤケに狭く感じられる道筋だけは残されているが…?、また丁の字を使う町名も見当たらない。昔、一??三番丁、中ノ丁、本丁、西ノ丁、鐘楼丁、小沢丁、と結構あったのだが…??私の生家の向い側原田屋?私の家では常にこう呼んでいた…?原田醸造場=?現、1はつもみぢ?のご長男で、私にとっては幼少年時大変可愛がってもらった忘れ難い方であり、展示されている遺作や遺品の数々に接すると涙止まらず周囲を構わずハンカチを眼にする。現在ほど勝手気儘な?思想の横行が許されない時代、?國の大事に殉ずるべし?と個人の感情、思想を無にし全てを捨てて、戦場に赴かれたであらう心情の純粋さは、昭和十八年九月八日着とされる父君宛ハガキ?同年八月戦死二十四才とされているので没後に届けられたことになり、その故に絶筆となった?の末尾四行に表現されている。
『前文略…?
 陸海ノ戦局益々重大性ヲ加フル今日生還ハ期シ難り
 生命全テヲ投出シ 君國ニ報ズルノ覚悟ニ御座候
 現在 心境鏡ノ如ク何モ思ヒ残ス事無之候
 何タル幸カト存居候  敬具』
 ハガキによる短い文章に万感の思いを込められたであらうことが伝ってくる。戦後六十一年を経た今日も尚消え去ることなく痛恨の念を禁じ得ない。昨今見聞する靖國神社問題、愛國心函養、教育問題、憂うべき社会現象、等を絡めてみると色々考えさせられる。
 嘗って、フィレンツェ、ウフッツィイ美術館で「ヴィーナスの誕生」を前にして、遥かここまで来て現物に接することが出来たかとの思いもあって鳥肌立つ感動を受けた覚えがある。同時に、新兄さん(私は原田新さんをこう呼んでいた)の面影が頭を過った。
 ボツティチェリに限らず数々の名画は絵を志した新兄さんにこそ見てもらいたかった。かく思う人は、この様な機会にも恵まれず今は亡しと。平穏泰平の現在が幾多の先人の尊い犠牲の上にあることに思いを至せば、世界中が近くなったばかりに、単なるsight.seeingにノコノコ出掛けて行くことに相済まなさと恥しさを感じ反省もさせられた。今夏孫を道連れに?中國?行を企画中、故きを温ねて漢詩の一節でも思い浮べ乍ら歴史のほんの一部でねも勉強して来ようと思っている。同行を強いられる十才の孫娘は言う、?おじいちゃんと行く旅行は何時もお勉強ばかり…??と。

「メモ」竹重千枝子さん、徳女二十五期 原田新さんの妹さん。

追記 私事はさておくとして、徳中先輩にこの様な方が居られたことを岐山会報誌上に紹介することが出来て満足。
 八月十三日の岐山会総会では今年も銘酒?初紅葉?が卓上に並べられることだろう。杯を傾け乍ら思い出を新にしたいと思う。


まど・みちおの世界
■徳高3期  澤田小惠子

 誰もが知っている「ぞうさん」や「やぎさんゆうびん」などの童謡をはじめ、宇宙にある総てのものの存在と価値を等しく受けとめ、深く鋭くそして優しいまなざしで詩をよむまど・みちおさんは、現在九十六歳、ふるさと徳山の宝です。勝手に徳山がふるさとなどと申しましたが「まどさん」は遥かな宇宙をふるさとに、生かされていることの素晴らしさを詩にしておられます。
 明治四十二年、西辻で誕生され、多感な少年期を過ごされた徳山は「まどさん」の詩の原点と言われております。自然との交感、小さなものやかすかなものへの優しさと思いやり、淋しさと畏れ、そして母への渇望など…
 昨年(平成十七年九月)徳山女性団体連絡協議会設立二十周年記念事業として「まど・みちおの世界」絵画展と詩の朗読会を、周南美術博物館で六日間開催しました。
 平成四年、美智子皇后英訳「THE ANIMALS(どうぶつたち)」日米同時出版。平成六年、日本人初の国際アンデルセン賞作家賞、平成十五年、日本芸術院賞受賞等、国内外を問わず高く評価されている「まどさん」の詩の世界を、その心を今こそ皆様にお届けしたいと企画したものです。
 予てからの念願が叶い、五月、川崎市のM喫茶店で「まどさん」と対談、ビデオ収録もさせていただきました。
 「徳山は忘れようと思っても忘れられない」と微笑まれ、東川では上ってくる細い小さいうなぎを冬の寒い時に飛び込んで手で掬ったことや、おじいさんが鉄砲でカラスを撃ったことを少年の瞳で、お供して下松までテクテクテクテク歩いて行ったこと、砂浜で貝殻や小さな生きものを見つけたこと、家族が台湾に行かれ一人残された淋しさや、その時置いてあったまんじゅうへのおもいなど「色々なことを思い出しますネ!」「あー懐しいですネ!」と昨日のことのように目を細め、思い出を手繰り寄せて話して下さいました。
 「東川が徳山を思い出す一番根元にあるような気がする」と言われた時、「まどさん」の詩の原風景は徳山の自然にありとの説を、改めて自身で受けとめて心が震えました。
 素人の拙いインタビューに、穏やかにお人柄そのままの誠実さで、ゆったりと時にはユーモアたっぷりに応答して下さり、好きな絵は抽象と、きっぱり。終始笑顔の寿美夫人は楽しく会話に味つけしていただき私には宝物の時間でしたが、お二人にとって、一時間余の収録はさぞお疲れになったことでしょう。案じる私達に深々とごあいさつされ恐縮! 感謝の気持ちいっぱいでお見送りしました。
 「まどさん」の詩は、ずうっと前から私の傍にあって、声に出して詠むのがクセであり幸せのひとときなのです。
 朗読会を開催するにあたり、七十年前の「雨ふれば」「ランタナの籬」から、一昨年出版された「たったった」の詩集迄、約千三百作品、散文詩も含めて全作品クセに従いました。何れも優しく、深い味わいのある作品郡の中から、今回朗読する二十数作品を選ぶことは、苦しくも楽しい作業?でした。改めて全作品を味わう機会を与えていただいた事に心からありがとうございました。
  深い夜

あばらに手を置けば
深い夜である

生きて
年齢をもち形をもち血さえ流れている自分である

あばらの数は
ひとつひとつ深い夜である

生きて
しみじみと女でない自分である

あばらの中のかそけさは男の
深い夜であるのか

生きて
限りなく他の人でない自分である


古稀を迎えて
■徳高7期  佐古宣道

 七期の私たちは古来稀なる年を迎える羽目になった。長くもあり、短くもあり感慨一入である。私たちは、戦争の悲惨さ、戦後の貧困生活や食糧難も身をもって体験でき、戦後の惨憺たる荒廃の中から、欧米先進国を必死で追いかけるキャッチアップ型の経済システムにより、GNP世界第二位に達するという奇跡的な経済成長を駆け登った道のりを併走することもできた。人類の永い歴史の中でもこの数十年に、科学技術の進展に伴い日常生活での諸々の利便性は格段と充実されたし、グローバルな情報環境の変革などはめまぐるしく追いかけるに息絶え絶えであった。上り坂の社会を先人たちが想定もできなかった事を見聞しながら、喜怒哀楽とともにどうにか潜り抜けた、得がたい人生であったともいえる。だが、この間には、消えたり、失った事象も数え切れない。四季の移ろいの中での日本の原風景、行事、日本人としての品格、人情、日本語独特の表現などである。
 近年は、食料、資源、エネルギー、環境などについて繁栄の影の部分が浮き彫りになってきた。上り坂は体にきついけれど、夢と希望があるが、下り坂は楽に見えて、実は足腰と特に膝に過剰な負担をかける。本世紀の後半での日本の姿と在り様については私たちの年代からは、懸念することも多々挙げられる。東海の小島に戻らにいよう祈りながら、年寄りの戯言といなされつつも、折に触れ発言だけはしておきたい。
 明治四十四年山口生まれの日野原重明先生とはね六年間毎年会する機会があった。某有名ホテルの夕食をほとんど食されず、その理由について、高齢者の体には最低限のエネルギー摂取で十分、過食は習慣病になりますよ。と説明された。七十五才になったら、「新老人」になりなさい。「戦後の貧窮、粗食も、健康には悪くなかった」し、「死ぬ瞬間まで人生の現役たれ」と喝破されている。
 お互い自愛して、いま少し頑張りたいものです。


はじめて書展を開催して
■徳高8期  城所圭子

 子供の頃から絵を描いたり書をかいたりするのは好きでした。子育ての一段落した頃、自分の自由時間に何をしようかと考えた時、「書」なら家にいて一人静かに楽しめると。本格的に尊敬できる師について書道を始めて三十年余、公募展に出品して賞を得ることが主流の中にあって、ひたすら趣味だけに徹して続けてきました。
 古稀も目前になり、ここらで人生の集大成として書展を開くことにしました。長年同じ教室で学び切磋琢磨し一緒に旅行もしたりする女性の仲間七人で、東京銀座鳩居堂画廊(日本の一等地?)にて「隆玄女流七人展」を開催しました。
 初日から在京の八期の友人が多勢お祝にかけつけてくださり感激
!わざわざ徳山から観に来ていただいたり、丹精したお花を届けてくださったり、それはそれは有難くうれしく思いました。作品もご好評いただき晴れがましい気持ちでいっぱいです。皆さんに観てもらうことがこんなに楽しくうれしいものだとは!思いきって書展を開いてよかったなあと感じています。
 これからも、読める書、自分独自の書をめざして、楽しんでいきたいと思っています。




九期生の切磋琢磨
■徳高9期  原田 茂

 先般テレビで橋本元総理の急逝の報に接し、我々九期と同年だと直感した。六十八という歳は若いのか年なのか分からない。それだけ我国が高齢化して来たということだろうか。岐山会の当番幹事も今回が最後ということで、逆に同期生は張り切っているようにも感じられる。また今年は岐山会報が創刊二十周年に当たり、編集委員長であり、我が学年幹事の出穂誠一君もその点に気を使い、会報が後輩達にも手にして貰えるようにと色々と会議で意見を集めて来た。二十年前の創刊号では、昭和六十二年の、あの甲子園の出場権を得る迄の軌跡の写真八ページが目に迫る。奇跡の逆転劇という言葉は掲載されていたが、創刊号には詳しい説明を施す時間的余裕がなかったのだ。翌年の第二号には同期の関 雅明君の監督としての喜びの姿や、初戦突破寸前の写真など詳しく掲載されている。八年にして母校を甲子園に導いた関君の功績には改めて拍手を送りたい。彼は母校在学中は中距離ランナーとして、ヤリ投げの中野哲男君と共にインターハイにも出場しており、彼のその前後のスポーツに対する熱意がこの快挙の素となっていることは間違いないと確信している。
 当時野球部も投打の中心をなした今西良雄君(後に立教、日石にて優勝に貢献、現在徳高野球部後援会々長)を初め少数精鋭の選手達が甲子園に王手をかける寸前であった。とにかく九期の運動部はヤリや円盤の跳ぶ狭いグランドや熱気が充満する柔道場や講堂において、皆が県下優勝を狙う意気込みで切磋琢磨していたように記憶している。その中心の体育幹事長はハンドボール部主将の高松正司君(東大へ進学した文武両道の秀才)だった。星井先生のご指導の元、女子も黒田能子(現姓・利根川)さんが主将を務め、見事国体出場を果たしている。県で上位に行けない部は肩身の狭い思いをするような雰囲気が漂っていた。そういう刺激もあってか、勉学に集中する仲間もそれぞれに努力し、頭角を表し、大学卒業後は高度経済成長の一翼を担う者、教育界で活躍する者、医者や経営者を目指す者、立派に家庭を守る者など、何れも徳高スピリッツを発揮しつつ努力して来たと自負しているところです。振り返れば九期生は昭和二十年、国民学校一年生の夏、終戦を迎え、二学期からは空襲警報のサイレンに脅えることもなく伸び伸びと学校に通え、そのころの物不足は、今から考えれば財産のような、貴重な体験だったのです。親や兄姉達の戦災復興の努力を見ながら育つことが出来たことも有難いことだと思う。その後恩師、先輩に恵まれ、明るい青春を過ごし、集中力を養いつつ、社会に貢献して来られたのではないかと感謝しております。そして今、大切なことは、岐山会の名簿を捲り、徳中、徳女の第一回の卒業生より本年卒業の後輩達までを見渡して、先ず多くの先輩諸氏のご功績やご遺徳に敬意を表すとともに、その学ぶべきところと、各時代の学ぶべき点を明確に捕え、それを後輩達にバトンタッチして行くという責務を負わねばならないということだと存じます。勿論、後輩の皆さんからも、若さと新しい感性や実行力を吸収したいと思います。
 そこで今年の岐山会総会では永年放送界で活躍中の同期の森脇幹子さん(旧姓・高柳・現在、日本民放クラブ理事・NHK監修講師、他)の特別の計らいにより現在NHKで活躍中の伊東敏恵キャスター(高四十三期)にも過密なスケジュールの中、東京より駆けつけて戴き、総会の進行を盛り上げようという企画もさせて戴きました。
 最後に、周南の元気をお伝えするために地元経済界で活躍中の同期の藤井英雄君(徳山海陸運送社長・徳山商工会議所副会頭・徳山港振興会々長・他)の、先般の海の日の式典における挨拶の一部をご紹介したいと存じます。?現在、徳山・下松港へ出入りする船舶の数は水島、千葉に続き全国で三番目であり、四番目以降は、横浜、神戸、名古屋と続いています。私の母校、徳山高校の校歌では?鼓海の水は深くして、百船千船入り集い…??と永年歌われて来ましたが、今まさに、我が港はこの校歌の如く年間三万二千隻(一日平均九十隻以上)の船舶が出入りしているのです。今、必要なことは、これらの荷物を上手くさばくために、国際規格の大型トレーラーが東進出来る産業道路の整備が急がれるのです。?
 岐山会の皆様の益々のご健勝をお祈り申し上げます。

「……男どもの四三会誌」を読んで
■徳高12期  中村冨士代

 本誌を読むきっかけは、昨年の岐山会報(第十九号)で「原爆投下から六十周年を迎えて|悪夢の月曜休日とその後」と言う特集記事を読んだことだった。この記事は徳中四十三期の片岡進さんの壮絶な体験記であった。息が詰まる思いで一気に読んだ。生々しい原爆の体験を実に冷静に書かれた片岡先輩とはどんな人だろうかと思った。同窓会誌に掲載されたのみでは勿体ないとも思った。そんな時、片岡先輩の同期の方々が四三会誌を発行されたことを知り是非読んでみたいと思い、既に完売となっていたところを無理して融通してもらった。手にとって、又々驚いてしまった。あの部厚い同窓会名簿と同じ版で同窓会名簿の半分くらいの重さがありそうで表紙には徳山の風景写真がカラーで載せてある。パラパラとめくってみただけで、これは読み甲斐ありと満足したのである。
 先ず「四三会」とは「旧制山口県立徳山中学校第四十三回卒業生の会」の称で、高知の民謡「よさこい節」をもじり、恩師木村武彦先生は「四三会」の先輩の十六年後の徳山高校第十二期卒業の私達の時代にも現職の国語教師であったから奇遇である。「よさこい」の語源は今年のNHK大河ドラマ「功名が辻」の山内二十万石の築城に際して、歌われた木遣りの「よいしょ、こい」という掛け声に由来するとの説があり、同期の人達が「よっさ、よっさ」と集う会であれと願いを込めたものであると述べられている。
 四三会の先輩達が児童・生徒そして学生として過ごされた時代は昭和八年から昭和二十年という、まさに戦争のまっただ中で、今日の私達には想像もつかない暗黒の時代(こういう表現が適切か否か疑わしいが)であった。学園生活を偲ぶべき「卒業記念アルバム」や「卒業記念文集」もなかった由。そこで徳中卒業六十年を迎えられた記念の年である平成十六年に、自分達の生きた証を残すべく、遅ればせの卒業記念誌として本誌を作成されたと記されている。それにしても、御歳七十七歳の先輩方が一念発起してこれ程のものを制作されるとは、流石、我等が先輩と感服するばかりである。この珠玉の一編を少しでも多くの同窓の方々に知っていただきたい。読んでいただきたいという思いで拙い文を書くことにした。
 第一部は詞藻集として、七十編の現存の方々の様々な思いが綴られている。どれも素晴らしい味わいがあり、徳中時代の事、戦争中の事、その後の生き様等読めば読む程興味の湧く内容ばかりである。そして文末には中学時代の顔写真と現在の顔写真が載せてある。この二枚の写真を見比べて、人間如何に変ろうとどこかに昔の面影を残しているという当たり前の事をあらためて痛感した。
 第二部は追慕集として、鬼籍にはいられた方々のご遺族の方等から寄せられた文と亡き級友の追懐や面影に寄せる心温まる文が並んでいる。遺族にとって忘れずに四三会誌に名を連らね、写真や文を載せてもらうだけでどんなにか嬉しい事であろう。そして消息不明の級友四名を気遣う稿もある。当時の写真や資料等が載せられているから、あるいは本誌の発刊で消息が判明するかもしれない。それにしても一五二名の卒業生が六〇年後に僅か四名の消息不明者に過ぎないとは、実に連係というか絆の強さを実感する。因に私共は卒業当時三年三組五三名であったが四六年後の今日、二名が消息不明である。十二期全体では五〇四名中四七人が消息不明と言う。あの混乱の戦中戦後に比べれば問題にはならない平和な時代だったのに……。事のついでに私達の三年三組の消息不明者をご存知の方があったら教えていただくと幸甚である。
 安武礼子さん(岐陽中学出身)
 石丸笑子さん(太華中学出身)
 さて「四三会誌」の第三部は校友会活動(報国団活動)の記録とある。報国団とは何ぞやと思って読んでみると、つまり校友会は現在のクラブ活動や部活のことである。体育系と文化系があったのは今も昔も変らない。明治、大正、昭和と続いてきた訳だが、戦時色が濃くなった昭和十六年には校友会が報国団と改称され、「陸上競技部」「剣道部」等の「部」という呼称が「陸上競技班」「剣道班」等「班」となったとある。時代の移りによって体育系も文化系も様々変遷があったろうが、この時代は戦中下、特に米・英と戦火を交えることになったため、野球等の西欧スポーツが敵性スポーツとして排斥され停止された。それに代って射撃班、銃剣術班、行動班滑空班等といういかめしい名称が登場する。思い出の写真が沢山載せられている、戦火をくぐったものもあるだろうに、よくここまで収集されたものだと感心する。その写真の中に私達の時代にも引続き徳山高校で教鞭をとられた大空清三先生や林寛先生の姿を見ることが出来るのも驚きである。
 第四部は「四三会」の歩みとして、四三会の先輩方の同窓会の歩みを沢山の写真でふり返っている。定着し軌道に乗るまでには紆余曲折があるのは何事も同じで、四三会の先輩方のように戦争をはさんでの人達には私達の場合とは比較にならない困難があったであろう。平成十四年以降は毎年実施との事である。同窓会が軌道に乗り円滑に開催されるためには、必ず誰か核になって犠牲的精神(あまり使いたくない言葉だが)を発揮する人物を要する。旗を振ってくれる人さえ居れば、同窓の固い絆や懐しさを求めて寄り集って来るのは間違いない。四三会にもそんな先輩が複数存在することをかい間見ることが出来る。私達十二期にも安大浩一郎さんという献身的な事務局長が居る。彼のお蔭で同期生の名簿整理や年一回の合同クラス会は整然と行なわれている。
 四三会誌の末尾には豪華な付録がたっぷり付いている。例えば、教育勅語、恩師一覧表、徳山市街地図、楽譜、解説付きの校歌・応援歌、同窓会誌「岐山」からの抜粋、「徳高百年史」からの抜粋、思い出の写真アルバム、「四三会」会員名簿等々である。どれもこれも付録のみでの充分に見ごたえのある内容ばかりである。特に徳山市街地図は昭和十年、昭和十五年、昭和二十年のものが載っており、懐しい町名にお目にかかる事が出来る。そして思い出のアルバムや名簿の中には隣のおじさんや先輩
・恩師の顔や名前を見つける事もあるだろう。実は私の親友のお父さんが当時の教師だった事を本誌で知り、親友に送ってあげたところ大変喜んでもらった。
 とに角、私にとっては近年にない感動の一冊であった。既に完売されたものをどうして手に入れるの…と叱られそうだが、あるいは、藤村公彦・中山義文両先輩等の編集委員の方に問合わせれば読む方法があるかと思う。かく言う私も一冊持っているのでお貸し出来るだろう。その内、中央図書館に寄贈されるのではないかと思う。同窓生でなくても本書を一度手にした人には、懐しい徳山に触れることが出来る程に資料が集められている。言わんや私達同窓生にとっては、単に徳中四三期の先輩の会誌としてのみ見過すにはあまりにも勿体ないものに思える。本書の作成を提唱された岩永先輩の「発刊のことば」の終りに書かれている文言を今一度読み返して、本書に触れた同窓の方々に何かを訴求したい。
 ……先輩後輩諸氏の手にされることがあっても、単に同時代の懐旧の情に止まるだけでなく、当時の事実の発見に驚きの感を持たれるであろう……・
 事実の発見の中に、次の時代に生かさなくてはならない数々の英知や教訓が隠れている事を見逃してはならないと思う。単に時代が違うとか、古臭いとかで一蹴されてしまってはならない。現役の徳高生にも目を通して欲しいと願う事切である。      終



楽しかった角島、西長門方面への旅
■徳高14期   池田信子

 平成十六年八月十四日(土)二年に一度開催される同窓会の日です。今回は、記念すべきみんな還暦を迎えての同窓会です。以前より同窓会に併せて、バスツアーの計画を……。と言う希望があり今回は還暦記念もあり、バスツアーをしてみようと言う事になりました。
 夏真只中、朝からギラギラの太陽のもと、ホテルサンルート徳山を九時三十分、防長観光バスに乗り込み、いざ出発!!参加者は、男性十五名女性二十名。乗り込むと同時に、飲み物と一人ずつ袋詰めされたおつまみを配給され、もう小学生気分ワイワイ!ガヤガヤ!また、ガイドさんのすばらしいこと、田代さんと言われるそのガイドさん博学と言おうか、はたまた吉本喜劇より派遣されたと言おうかバスの中は大笑い。流石の十四期男性諸君もたじたじ……。お腹の皮もよじれ顔もぐちゃぐちゃ。バスの中の様子は、皆さんのご想像におまかせします。西長門リゾートホテルで、にぎやかでそして豪華な昼食。心も身体も満腹感を味わいました。すばらしい紺碧の海、流線型の橋が、ジェットコースターに乗っているような気分でした。いざ角島へ到着、汗だくだくになり灯台めざして一目散。若いつもりでも寄る年波みんな、ふうふうはあはあ。しおかぜの里で海産物など大買物をして出発。次に”竜宮の潮吹“に寄りましたが、ここは冬ならではの観光地。夏はあのダイナミックな潮吹きはみられませんでした。さぞかし冬には雄大な潮を吹くだろうなと思いながら、その地を後にしました。次のコースは、北長門の棚田を車窓より見学だったのですが、ずい分と時間が押して来ており、夕方からの同窓会が気になりだし棚田コースは、カットとなりました。車窓からの美しい景色、同級生ならではの和気あいあいの雰囲気、ガイドさんの楽しいおしゃべりで、暑い暑い真夏の一日も「良かったネ、また今度もバスツアー計画してよ」との感想で幕をとじました。
 楽しい雰囲気のままで突入した同窓会も、またまた盛り上がり楽しい会となりました。


生涯現役をめざして
■徳高16期  長谷川和美

 直腸癌で手術し人生観が、一八〇度変わった。二十五年間学習塾一筋に小・中学生を教えることを天職としてきた自分にさよならを言えた。自ら癌患者であることを隠さず、癌と上手に向き合っていこう。そして同じ病気で悩んでいる人と互いに支え合って生きることができたら。高齢者問題に本気で取り組むことを決意したのは五十二歳のときである。我が故郷周南の地に、毎日型配食サービスを根付かせよう。全国でも例の少ない一日・二食・週十四食体制。和田や鹿野、八代や大津島でも、おかゆ・きざみ食・ミキサー食が届くサービス。直腸癌の主な原因は食事の不摂生だった。死ぬまで元気な人づくりが自分の生涯のテーマになった。まさに食こそ命である。テーマ実現のため、市議選、県議選も迷いは無かった。今、意を同じくする仲間と『高齢社会をよくする女性の会徳山』の会長として今年で活動は十九年目に入った。血縁の無い家族づくりを旗印に小さなボランティア活動は楽しい。昨年PET検査で癌のリンパ節転移を告げられ、市議会活動ができるか心配したが、検査結果が納得できないとする主治医の意見に従い、一ヵ月後再検査。転移の影は消滅していた。も少し生きられそうだ。生涯現役を自分の生き様で示していきたい、そう胸を張っていえる歳になった。座右の銘は、『この道より我を生かす道なしこの道を行く。』である。みなさん楽しく手を取り合って生涯現役を共に貫いていこうではありませんか。



もうすぐ国民文化祭
■徳高17期   黒田幸子

 「国民文化祭やまぐち」まであと二ヶ月半となりましたが、我が母校徳山高校が「子供夢プロジェクトに採択されたと聞き大変喜んでいます。県内の休校廃校校舎を昔のように人でいっぱいにする事業「廃校に花を咲かせましょう」プロジェクトで二つもの事業に取り組んでいて素晴らしいと思います。大潮小、小畑小、向道中を美術館にして、全国で活躍しているアーティストの作品を展示する事業と、全国から募集した百十数通のラブレターを元に「らぶふみ」という映画を製作し向道中で上映するもので、二井知事も出演されているとの事です。
 この「子供夢プロジェクト」とは子供達が提案した文化芸術活動の夢やアイディアを国文祭やまぐちで実現するもので、国文祭としては初めての画期的事業です。徳山高校の生徒百人以上が協力して取り組んでいるとの事。我が子よりも、うんと若い後輩達の活動が頼もしく、今からとても楽しみです。勿論、私も観に行くつもりです。
 さて、私たちが住んでいる下松でも十一月十一日(土)にスターピアくだまつで「国文祭、童謡フェスタinくだまつ」が開催されます。私も国文祭童謡フェスティバル推進委員として舞台の演出等に携わっています。北は岩手県から南は長崎県までの県外十五団体、県内十団体が童謡にそれぞれの思いを込めて出演されますし、ゲストにはビッグママこと、あの中島啓江さんをお迎えしています。きっと温かくて楽しくて、元気の出る舞台になると思います。ご来場の出演者や観客の皆様が、来て良かった!楽しかった!と思って戴けるよう、?心のこもったおもてなしを!?を合言葉に会場内は勿論、周辺部においても色々なアイディアを結集して、私たちスタッフもワクワクしながら準備を進めています。皆様是非ご来場下さいネ。入場は無料です(入場整理券が必要です)


お礼
■徳高24期   田中泰史

 昨年は皆様のご協力により何とか当番幹事期の責務をこなせましたこと心よりお礼申し上げます。
当番幹事の連絡会を催す前四月くらいから「とにかく赤字にならないように」を合言葉にアトラクションを考えたり、食事やお酒を考えたりと何度か集まりを持ちました。さて五月を迎え連絡会を開きましたが、山県さんを始め八期の皆さんはほとんどの部分を我々に任せて下さいましたし、三十一期は三宅さん赤星さんを始め皆さん非常に協力的でしたし、四十三期の皆さんもよくやってくれましたので我々二十四期は楽に当番幹事が出来たと喜んでおります。
本番も多少の手違いはあったものの、何とか許せる範囲内のミスであったと思います。赤字も出ませんでした。ただ、今回の当番を引き受けてから少し気になることがありますので、この場をお借りし問題提起してみたく思います。
ひとつは学校で開かれる幹事会の出席率が悪すぎるということです。出てもそこで議論が交わされるわけでもなく、報告事項をただ聞くだけのようになっています。以前は意見交換も行われていたように思います。これで本当にいいのでしょうか。非協力的な期も増殖しているように思えます。
もうひとつは岐山会報の件です。本来どういう趣旨で作られてきたのか今となってはよく覚えていないのですが、やはり単独事業として赤字は出さないようにするのが筋ではないでしょうか。当初は広告収入で会報発行費を賄う事になっていたように記憶しています。岐山会報はここ何年か僅かながら赤字で、総会費から補填をしてもらっているようです。これでは当番幹事が頑張っても結果的に赤字になったという事が出て来るやも知れません。
どちらも昨年の会報(第十九号)で「岐山会三十期代の意見交換会」に取り上げられています。せっかく三十期代の皆さんが提言してくれているのですから、我々も一度原点に返って岐山会や岐山会報のことについて考えてみませんか。このままズルズルと続いていけば同窓会そのものが機能しなくなるような気がしています。
 我々二十四期が解答を持っているわけではありません。皆さんと共に考えていけたらと思っています。
二十四期常任幹事  廣繁芳彦
    常任幹事  有吉清子
  同窓会事務局  田中泰史


カワウソの夜
■徳高25期   原田洋子

 時間とは奇妙なもので、時々思いがけない悪戯をする。たとえば、見渡す限り灰色の建物の連続、山のすがたも遠く退いた都会に埋もれて、故郷に暮らした日々など前世の、そのまた前世のように思っていると、街角でいきなりかつての自分に出くわすことがあるのもそのひとつである。

 晩春の生暖かい夜、花のお江戸は湯島天神のお膝元のとある料理屋の二階に、かつて同時期に同じ高校の門をくぐった同級生たちがあいまみえた。長い歳月の隔たりがあるにもかかわらず、昨日試験のことを話したその続きを話すように話しているという不思議。あたかも時間のリボンの端がクルリと翻って反対の端につながったように。いったいこれはどうした魔法だろう。

 みんなに連絡を取ってお店も手配してくれたM氏持参の山口のお酒「獺祭」がビールの後回ってきた時、成る程この時間、空間の一種特別な感じは「祭り」だと思い当たった。日常からふと落ち込んだ異次元。仕事や家庭、健康、将来などの憂いからすっぱり切り離されたハレの世界。終ればまた連続する日常に何事も無かったように戻ることができる。

 「獺祭」とはカワウソが捕えた魚を食べる前にならべて置くことを祭りにたとえたものだが、広辞苑で見ると文を書いたりする時に何冊も本を散らかしていることも言うらしい。余談ながらこれは自分の仕事場にそのままあてはまる。毎日別の意味でお祭り騒ぎというわけだ。

 とまれ今宵の宴は夜が更けるに連れて山口弁の飛び交う騒ぎとなり、粋な板前さんたちもさぞあきれたことだろう。やがて宴も果てると、その座敷に青く光る魚を遺したまま、カワウソたちは三々五々地下鉄の入り口に吸い込まれていったのである。



岐山会報に寄せて
■徳高26期   津田 諭

 昭和四十九年に卒業した津田諭です。関西に出て三十年余り、徳山とは縁がなくなりましたが、いつも私のベースには徳山高校で受けた教育があると感じてきました。私は大阪府下に在住しておりますが、子供によい教育を受けさせるには公立学校では駄目だ、私立校に行かせなければという風潮の中で、自分が受けた徳山高校での質の高い教育を振り返って、今の子供たちは可哀想な気がします。よい友達に恵まれ、のびのびと勉強にクラブ活動に打ち込めた高校時代を、今は誇らしく思います。娘は結局、いわゆるお受験をして中高一貫校に進みました。
 仕事は社会福祉、それも視覚障害者の職業訓練というマイナーな分野に携わって二十年になります。今、社会福祉は、新しい法律が施行され、どの法人も生き残りをかけてもがいている大変な時期を迎えています。そんな中で、一年から二年という短い間に、利用者と接しながら、各自の職業人生をどのように切り拓くか、共に努力していく仕事にはやりがいを感じています。障害者、それも視覚に障害をもつ人たちが、社会の中で働くというのは今も大変なことですが、少しずつ受け入れてくれる事業所が増えて、チャンスに恵まれた人たちが巣立っていくのを見送る時は達成感を感じます。私も五十歳を超えてだんだん無理がきかなくなってきましたが、おかげさまで仕事が老ける余裕を与えてくれません。これからもやれる間は精一杯頑張っていきたいと思っています。


周南市役所前の銅像の話
■徳高48期   山田友紀

 先日、友人から「周南市役所前にある銅像のモデルは誰?」という質問があった。「あの銅像のモデルは初代徳山村長の野村恒造だよ。」と答えたら、「一体何をした人なのか?」と聞かれた。何人かの知人にも聞いてみたが、野村恒造について知っている人は誰もいなかった。野村恒造は徳山の発展に多大な功績を残した人だが、没後九十年近く過ぎるとそうした事実はすっかり忘れ去られているらしい。歴史を学ぶ者にとって少し寂しい事である。
 野村恒造は幕末に徳山に生まれ、明治時代に徳山村長、徳山町長、衆議院議員を歴任するなど政治家として活躍した。徳山町長在任中に衰退する徳山の町を救うため、海軍煉炭所を誘致したり、岩国地区住民と連携して岩徳線の新設を国に働きかけたりするなど徳山の発展に多大な貢献をした(『周南地方歴史物語』瀬戸内物産)。
 野村恒造は大正中期に亡くなったが、昭和に入るとその遺徳を偲ぶ人達から野村恒造の銅像を作る計画が持ち上がった。原田忠男「野村恒造翁銅像建設閑話」(『郷土随筆』第十一集所収、随筆同好会)によると、当初は費用が少ないため、首の部分だけ作り、胴体の部分は既存の銅像から取ってきて首と胴をくっつけるという計画だったらしい。記念の銅像を作るにしては失礼極まりない話だが、さすがに銅像を作る彫刻家が強く抗議したため、結局全身像を作ることになり、フロックコートを着た野村恒造の銅像が毛利公園(現在の徳山動物園の門前)に設置された。
 惜しい事にこの銅像は戦時中、弾丸の材料に提供するため壊されてしまった。今の市役所前にある銅像は一九五九年に徳山市長・黒神直久(徳中二十六期)が以前、銅像を作った同じ彫刻家に依頼して造ったものである。
 野村恒造は周南市と名を変えた現在の徳山をどう見ているのだろうか?明治人らしく「不況で苦しい?維新の先輩の苦労を思えばたいした事などない。徳山発展のためにがんばれ!!」と後輩を叱咤するのではないかと勝手な想像をしている今日この頃である。



関西岐山会総会時の山本俊昭君の個展に思うこと
徳高12期 岩崎好規
 平成十八年度岐山会関西支部総会において同期山本俊昭君の絵画展を開催した。最近の関西支部総会の有り様と動向と、山本君の個展についてお伝えしたい。

平成十八年度関西岐山会総会
 平成十八年度関西岐山会総会は、六月二十五日大阪駅のホテルグランビア大阪で開催された。
 昨年の秋高校十二期会が徳山で開催されたときに、久しぶりに出てきていた山本俊昭君が油絵を描いていることを知った岩本彰三君が「山本君の絵を関西岐山会」に持ってきて皆に見てもらうのはどうかと提案した。
 これには皆賛成して、岐山会関西支部の役員の方々にも賛同を得ることができた。ホテルの宴会係さんに依頼して仕切り用のパーティションを出してもらうことができ、当日の朝、有志で山本君を手伝って五点の展示は十時には終了した。
 当日定刻十一時の二時間前の九時には、さすが、責任感の強い幹事長の長浜一二氏は体調の悪さにも拘らず受付机の前で皆の出席を待っていた。
 定刻十一時をやや遅れて始まった総会は、河村久美子幹事(高十六期)の司会で坪田久志会長(高五期)、小川亮岐山会会長(中四十一期)、棟久郁夫校長、重国晋佐彦岐山会事務局長などの来賓挨拶や紹介があったあと、来賓の方々は控え室に行って頂くようお願いして総会が開始された。なぜ、来賓の方々の臨席を避けるかについて坪田久志会長は、「総会に出席していただいていると、聞かれて具合の悪い話もあるので・・・」と理由付けをしていた。
 会計報告は、光延泰壽(高十期)会計担当から行われ、収入一、一五九、五〇〇円、支出一、二三五、六〇一円、次期繰り越し金二〇〇、七四一円という報告がなされた。会議費という収入項目での四四、〇〇〇円は幹事会での幹事からの食事代の残金の寄付金であるという。予算決算ともに形は、一応健全に見られるが、中身は大赤字で会長はじめ自腹を切っての関西岐山会であるということである。さらに、現在の岐山会のあり方について、坪田久志会長から、財政は危機的状態にあり、どのような方向に進んでいったらよいか、の意見を聞きたいが、本総会での「発言や意見交換ではなく、意見があれば後ほど会長職まで送ってほしい」という発言があったが総会は拍手のうちに閉会した。その後、控えの間から来賓も再び参加されて講演となった。
 「自然環境の予測と現状」という演題で原田朗(高五期|京大理卒:元札幌管区気象台長|元気象研究所長|元防衛大学教授)氏から陰陽道の阿部晴明も気象学に通じた専門家であったという切り出しで聴く人を惹きつけ、九十年代までは温暖化が人為的かどうかについて疑問もあったが、いまではすでに疑うべき余地はないという立ったままの約三十分の講演があった。
 なお、徳高十二期の出席者は十一名で、出席者約六十名のうち十九%すなわちほぼ二割を占めているが、これは歴代同期幹事役の高藤義弘および松村勝昭両君の貢献が多い。関西在住の十二期生は、在住の四分の一が出席して、関西岐山会の最大の支援グループである。

山本俊昭君個展に思うこと
 山本俊昭君は、大島の出身で、毎日通船で通学していたそうだか、徳山市立鼓南中学校時代から絵画が好きだったという。徳山高校時代特に絵画部に在籍することもなかったが、卒業後、市役所に勤務しながら、徳山市文化教室に参加して絵画制作に励んだ。鼓南中学校の恩師に薦められて、絵画団体の旺玄会(*)に応募出展したところ、新人賞などを受賞して、山本君は開華したのである。爾来、旺玄会の会友、会員、さらに平成十二年には委員(審査員)に推挙され、平成十四年に徳山市役所を退職。現在、旺玄会山口支部長、周南絵画連盟事務局長、また、周陽公民館で油絵講座を開くなど地域画壇界を支えている。
 山本俊昭君は長身の百八十一センチで四十九キログラムという。聞けば今から二十年前に食道がんとなって手術を受けたという。そのころはアルコール中毒にはまっていたそうだが、今は飲めないといって断酒中で、タバコを吸うのは止められない。
 彼が展示してくれた絵画は、静物画の”花シリーズ“を中心として、ふるさとの漁港などの五点であった。花シリーズは、小さな花の集合で”群れ花“とでも呼べるものであろう。小さな花々が寄り添いながら、一つ一つの生き方とともに皆で一緒に与えられた生を楽しんでいるという感じがよくでている。
 本シリーズの”白い花“は、周南市文化振興財団の絵画貸出し事業の無料提供作品のひとつにも(油絵 白い花45×63cm)となっている。
 現在、強いものが勝つのが当たり前の世情になってしまったが、彼の”花シリーズ“をみていると弱肉強食の世界とは別の世界もあるという思いを深くするのである。
 棟久郁夫校長が、国公立や私立の大学に何人入学できたか、という学業成果戦績報告をされていた。
 山本君の生き方を見ていて、もし、我々の在学中に、適性適職審査というようなものがあったとしたら、彼は美術系ということでその道に進み中央画壇で活躍していたのではないか?という思いが頭を掠めたのである。
 こういう適性適職審査というのは、専門的に実施している機関にも協力してもらいつつ、進学担当教諭と別に、生徒適性審査担当教諭を新設するとよい。だれもが大学に行く時代、あなたは何をすればよいのか?何に向いているのか
?の指導がされて、卒業後、岐山会同窓会で高等学校における進路適性審査による評定で審査のフィードバックがされてもよいように思った。

(*)旺玄会(おうげんかい)
 旺玄会は創立以来、牧野虎雄の精神を継承し、具象絵画の探究と、作家の個性尊重および質的充実を重視つつ、新人の育成に努め、絵画を公募し、絵画展を開催する美術団体。牧野虎雄(黒田清輝・藤島武二に師事、東京美大卒、明治二十三年生?昭和二十一年没)が帝展で活躍していた若手作家とともに結成した塊樹社(大正十三年結成)の解散(昭和七年)の翌年、牧野を主宰者として、その門下生および塊樹社の新人らによって旺玄社(昭和八年)が創設され、東京府美術館で第一回展を開催。昭和十九年戦時下で解散させられたが、牧野の没後、昭和二十二年旺玄社同人が集まり、旺玄会と改称し、活動を再開した。
 現在、旺玄会展を東京で、大阪、名古屋、秋田等において巡回展を開催している。

山本俊昭君(高12期) プロフィール
昭和16年(1941)山口県徳山市大島に生まれる
昭和35年(1960)山口県立徳山高等学校卒業(徳高第12期生)
昭和35年(1960)徳山市役所に奉職
昭和46年(1971)徳山市民文化教室に参加し、油絵の製作に励む
昭和51年(1976)絵画公募団体の旺玄会に出展 リキテックス賞
        を受ける
        関西旺玄会に出展 新人賞に輝く
昭和52年(1977)旺玄会に出展 奨励賞を受賞
        関西旺玄海に出展 努力賞を受賞
        以後、旺玄会を中心として出品し、
        各種賞を受ける
昭和53年(1978)旺玄会会友に推挙される
昭和57年(1982)旺玄会会員に推挙される
平成12年(2000)旺玄会委員(審査員)に推挙される
平成14年(2002)徳山市役所を退職
現在、旺玄会山口支部長、周南絵画連盟事務局長






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