各期だより---徳中編
思い出の記
■徳中42期   山本勝身
 近頃老人クラブに出席する。思い出は苦しい戦中戦後となる。みな年齢も八十を越えて意欲も未練もない。ここに記するのは亡父の話である。父は明治二十九年七月十一日生まれ、海軍に志願して呉海兵団に入り五等水兵、四等水兵で九月三日生駒乗組となり六インチ砲員十月南遺艦隊編入、呉、ホンコン、シンガポール、タウンズビル、ニューカレドニア、フィージー、トラック、横須賀帰着、四年六月三等水兵、扶桑乗組となる。六年佐世保から北支那へ、十一月一等水兵、以後は支那沿岸の警備、東亜露領沿岸警備などあり、十年補充交替として海兵団に復し十二年現役満期となり任三等兵曹となる。陸軍では伍長に相当する。戦争勤務は三倍となるため九年が十二年とされ年一五九円の軍人恩給を受けている。その後の呉鎭長官が鈴木貫太郎である。私が農家の生れであるのに教員となったのは、父のおかげかと思うと感無量、いま私も年金をもらっているが農業だけでは喰えぬから先生でもやれというわけか。先生しかやれなかったのかもしれぬ。古い記事を探すと大正七年七月、徳山湾内で河内艦(一万七千トン)が撃沈、八年には徳女の吉井信子嬢が明石心中事件を起こしている。徳高百年史にある。扶桑は当時、世界有数の強力艦であり三十五センチ砲を積み、迪宮殿下(昭和天皇)もご乗艦、特別観艦式にも座乗なされたとか。戦争中は比島スリガオ海で奮戦沈没。扶桑、山城、伊勢、日向、陸奥、長門、金剛、比叡、榛名、霧島として有名で比叡はお召艦で練習戦艦、満州国皇帝を大連からお連れした艦でもあった。昭和十五年ごろ戦艦霧島を見学したとき、徳中先輩、重永主計中佐の好意で三十六センチ主砲をせん回させて見たことを記憶している。四十センチ砲は陸奥長門でありほかは三十六センチ砲である。年額一六〇円足らずの金は月額四円五〇銭の授業料となったのか、他所(よそ)の人があんたの所は恩給があるからねと言はれたのを思い出す。


徳中「四三会」傘寿記念同窓会
■徳中43期 中山義文
 昭和十九年二月卒業、戦前戦中戦後を体験した我々も、その殆どが満八〇歳を迎えた。感慨無量の同窓会は四月八日(土)笠戸ハイツで開催。
 桜満開、快晴の空、瀬戸の夕陽を観賞…自然の演出も満点。出席返信三十一名が、直前欠席連絡で結局県外からの七名を含めて二十八名の出席。最初に「四三会誌」発行の作業疲れ?で、昨年総会を開催しなかったことをお詫びする。その間に残念ながら七名の訃報あり、物故者計六十七名の御霊に黙祷をささげた。
 総会の報告事項として、「四三会誌」の大きい反響、国立国会図書館寄贈と永久保存認証、藤村君の邦楽部門県選奨受賞、物故会員遺族からの「四三会」への御礼状などを説明する。
 懇親会は、下村医師提供の「日医新聞」から、「笑いが一番、薬は二番」の記事に習って「笑顔で始まり笑顔で終る」をテーマに進行した。例えば課外特別授業として、保健の時間、健康の心得メモ、長寿も希望だが、平均健康寿命こそ重要との認識。数学の時間、ビンゴゲーム、数のなぞなぞ出題。外国語の時間、分かりにくい外国語の日本語言い替え語について。
音楽の時間(想い出歌集)特に徳高校歌作詞者、高野辰之先生作曲の「春が来た」「故郷」の大合唱など。
 各授業ではボランティア先生続出、笑いと盛り上り止まる処なし。遠く東京から宗内君差し入れの銘酒「男の友情」を酌み交し、談笑風発、あっと言う間の三時間を経過、名残り尽きないが再会を約し閉会となる。
 来年以降は、続けられる限り、毎年四月三日に、気楽に集まる会を開催することを決める。
 尚、この同窓会の資料、報告を、当日欠席の会員、遺族の方にも後日お送りした。体調理由で欠席された会員のご回復を祈り、次回再会を心から願いつつ。

*「四三会」連絡先
 中山義文
  〇八三四|六二|六二八六
 内富敬二
  〇八三四|二一|〇二八八
          〇八二二



「世吉会」
■徳中44期   今田太郎
 徳中四十四期の同窓会は「世吉会」(ヨヨシカイ・木村武彦先生の命名)と称し、毎年四月四日を開催日と決めている。
 会員一六四名の現況は、死没者六〇名、消息不明者四名、生存者一〇〇名である。
 今年の同窓会は三十五名の出席者を迎えて、ホテル・サンルート徳山で開催されたが、片山 悠
(ユタカ)さん(東京在住)が次の連句を発表されたので、ご紹介いたします。

 徳山中学校世吉会
と 疾く過ぎ去りし かの時や
く 苦難に堪えて  国思ひ
や やがて来ん春  待ちわびぬ
ま 眞理たづねて  道遠く
ち 血と涙との   時もあり
ゆ 夢うたたかと  消え去りて
う 憂きことなほも 襲い来る
が 学未だしも   それなりに
く 悔は残れど   ひたすらに
か 彼方みつめつ  まみあげて
う 憂き世の明日を 信じつつ
よ 齢 八十    辿り来ぬ
よ 世のしあわせを 求めては
し 死に神今や   影失せて
く 悔いなき日々を 次ぎ米寿
わ 湧き立つ意欲  胸に秘め
い 意気高らかに  けふあした
  平成十八年丙戌四月四日
       会員 片山 悠

  追憶
 昭和十二年七月?小学校四年?に日中戦争勃発。
 昭和十六年十二月?徳中二年?太平洋戦争に突入。
 緒戦の段階では、勝利・占領の凱歌が挙っていたが、昭和十七年六月?徳中三年?のミッドウェー海戦以降、全滅・玉砕の重苦しいニュースを聴きながら、勉強や勤労奉仕に励んだ。
 服装の面でも、学生帽が戦闘帽に変り、男子は脚にゲートルを巻いて通学した。 ?女学生はセーラー服からモンペスタイルに変った?。
 全国に隣組が組織され、主食の配給量は次のように徐々に減る。
八才以上一日当り  二合九勺が
昭和十五年十一月  二合七勺に
昭和十六年七月   二合四勺に
昭和十九年七月   二合一勺に
 また昭和十七年二月より味噌・醤油および衣料繊維品が切符制の配給となる。
 防空演習が始まると、夜は電灯の灯が屋外に漏れないようにする灯火管制の規制を受けるが、他方で明日に備えて予習復習をしなければならないので、乏しい電灯を僕が独占した。
 加えて、武道?剣道または柔道?
と教練?軍隊の基礎教育)は必修課目だった。
 二学期と三学期の開始と同時に、暑中稽古と寒中稽古が行われ、各部員は、授業開始前、二時間の稽古に励んだ。?部員以外は一時間、授業中は睡魔に襲われ、屡先生から注意を受けたものです。?
 勤労奉仕で忘れられないのは、四年生の時、向道村?当時、現在大向?における、出征兵士の家の稲刈作業だ。僕の記録によると、昭和十八年十月二十七日から十一月二日までの一週間、徳山から向道まで三十五粁を徒歩で往復し、三ヶ所の寺院で宿泊して、稲刈作業に従事した。大勢での宿泊は初めての体験だったので、夜の消灯後は、枕を投げ合って興じた。
 昭和十八年十月二十日、学生の徴兵猶予特権は全面的に停止され、約三万人の学生が入隊した。
?注・東京では、明治神宮外苑競技場で、出陣学徒の壮行会が開催された。)
 向道村における稲刈作業は、その直後のことであった。
    *  *  *
 昭和二十年三月の卒業生は八五名で、残りの七九名は卒業前に、大部分が軍関係の学校へ進んでいたのである。?岐山会報・創刊号・四四頁より?
 また?僕たちのクラスは、総員一六四名の四九%が四年生までに学校を去り、また六三%が軍隊生活を体験したという、徳中では、特異のクラスです??岐山会報・第六号・一〇〇頁より?
 幸いにも、軍隊在学中に終戦を迎えたため、戦死者は無かった。
    *  *  *
と 疾く過ぎさりし かの時や
く 苦難に堪えて  国思ひ
ち 血と涙の    時もあり
ゆ 夢うたたかと  消え去りて
う 憂きことなほも 襲い来る
冒頭の連句は読むほどに味わいがあり、心に沁みる。
 今や齢 数えの八十に達した。閻魔裁判長からどんな判決が下されるか? を気にしながら暮している昨今である。


心友
■徳中47期   高橋榮清
 辞書を引いてみた。「心から許し合っている友」と書いてあった。そんな友が私にも居た。彼の家は下松駅の山側にあり、今の様な直線道路はなく、駅へ行くには「コ」の字型に西へ進んだ。私は東の方から駅に行き、組も違って居たので、接点はあまり無かった。三年生になると四組で一緒になり、急速に親しくなった。同じ組になって新しい発見があった。それは一時間の授業時間内に、便所に行く学校公認の特権を持って居る事だった。我々が申告すると大目玉である。後年納品した物件をみる為、彼と二人で四国西条の発電所へ行った時、一泊して翌朝早く帰路に就いた。一時間もしない内に「オイ止めろ」、「何かあれか」、「うん」、又一時間もしない内に今度は彼が笑いだした。「何か又か」、「ソー文句を言うないや」、何を言っても怒らない人だった。
 三年生になると、よく彼の家の部屋に遊びに行った。学校の帰りが多かった。彼の部屋には陸軍将校の軍服と、大きな双眼鏡があった。軍服はカーキ色ではなく少し緑がかった色をしていた。双眼鏡で下松駅方面を覗いてみたが、一面の田圃で人影は無かった。静かな田園風影であった。何時頃の事かハッキリしないが多分戦後であろう。俺の兄は、ノモンハンで死んだと彼は言った。彼の言葉によると、軍人になる為に山口中学、陸軍幼年学校へと進んだ。戦車隊と言って居た。私は興味を覚え、ノモハン戦記を読んでみたが、彼の兄の名前は出てこなかった。戦車隊は第一次ノモンハン事件に出撃したが、責任を取って自決する様な戦さはして居なかった。
 昭和十四年五月から九月迄の間に、日本軍は八千人以上の死傷者を出し、九月にソ連の申入れで停戦となり、その時の捕虜交換で、将校は軍法会議にかけられる為、独房に入れられ、裁判の前に、弾丸一発入ったピストルが差入れられた。自決を促すものであった。彼等はみな自決した。これを読んで、もしやと思ったが、その事は彼には言わなかった。その内、今度は「通信がのお」、と言い出した。当時日本軍は有線電話を使って居たが、戦場に引いている電話線上をソ連の戦車が暴れ廻ったのだから、連絡は取れなかったはずで理由にならなかった。この話は疑問を残して追求するのはやめた。彼とは昭和四十年頃よりゴルフの練習を始めた。その後、二人共周南カントリーのメンバーになり、私が運転してほぼ毎日曜日、一緒にプレーした。ハンデーは常に私が一つか二つリードして居たが、同級生なのでスクラッチで勝負したが、彼が勝つ事が多かった。ある時、周南カントリー二番ホールで二打目の地点に行った時、キャディが何を想い出したのか、「いい髪をしていらっしゃいますね」と彼の髪をほめた。彼はその頃、横と後を長くのばし帽子を被っていたので、ヘッドが薄いのをキャディには解らなかった。私は「オイキャディがいい髪をしていらっしゃいますね。と誉めてくれたのだから帽子を脱いでみんな見せてやれ」と彼に近づいて行ったが、彼は帽子を押さえて逃げて行った。そしてグリーン上で彼がパターに熱中している隙に、私は後から彼の帽子を取ってキャディに言った。「どうか、いい髪をしているだろう。」キャディは大喜び。下手な漫才よりも面白いと言って笑った。そんな馬鹿な事をやられても、怒らなかった。
 昭和が終って、平成に入った三月末の土曜日の夕方、私は高山石油のスタンドで給油、事務所で週刊誌を読んで居た処へ「お前の車が有ったから来たいやー」と叫びながら彼が飛び込んできた。二人で話して居ると、所長が入ってきて「ゴルフは何時頃から始めたのですか」と話しかけて来た。「ゴルフは昭和四十年頃から始めたのぢゃがのお、こんなとは中学からじゃから普通のもんとは違ういやー」私はピックリした。今迄そんな言葉を聞いた事は無かった。そっと彼の顔を覗いた、顔色は悪かったが饒舌でご機嫌だった。そしてゴルフ場でキャディが、「いい髪をしていらっしゃいますね」の事件を滔々と喋り出し、最後に「俺をハゲハゲと笑いやがって見てみい俺を追い越しやがる、ハッハッハ」私のオツムを指さして四十数年間のウップンを晴らすが如く高笑いした。そして「明日も行くんか」「うん」「がんばれよ」この声を残して事務所を出て行った。
 これが私に対する彼の最後の言葉となった。そして一週間後入院したと聞いた。花見酒をやりすぎたか、又元気な顔を出すだろうと思っていたその一週間後、山本産業の社長からTEL、「危ないからすぐ行ってくれ」、早速中央病院の病室へ急行した。入口に背を向けて居たので反対側から声を掛けようとしたが、胸がつまって声にならなかった。その日の夕方、息を引きとった。私は不思議でならない。いったい誰が彼の背を押したのだろう。なぜ「お前の車があったから来たいやー」、なぜ「俺をハゲハゲと笑いやがって、見てみい俺を追い越してやがる」と四十数年のウップンを晴らすが如く高笑いしたのか。
 約束通り、友人代表として弔辞を読んだ。みんなが良かったと言ってくれたので安心した。葬儀のあと、彼の家で細やかな会食があった。そこで、私は兄さんの事を聞いてみた。すると二番目の兄さんが「ああ芳朗はあんたに本当の事を言ってない、あれは昭和十二年の春ソ連を想定しての関東軍の大演習が満州北部であった。その時兄は無線の責任者だったが、線器の調子が悪く散々だったので演習終了後上司の官舎へお詫びに行ったが会ってもらえず、もう一人の上司にも会ってもらえなかったのでやむなく官舎を辞し、雪の練兵場の真中で責任をとって割腹自刃した」と。それで解った。彼が「通信がのおー」と言った意味が、当時下松町葬があったが、我々は小学校低学年だったので記憶にない。
 それにしてもA級戦犯に陸軍元師一名、陸軍大将九名、陸軍中将四名、彼等は敗戦の道義的責任を感じなかったのだろうか、兵には死ねと言っていたくせに。
 彼とは下瀬芳朗君である。平成元年四月他界した。
(注)ノモンハン事件とは旧満州北西部のモンゴルとの単なる国境紛争で当時ソ連とモンゴルは軍事同盟を結んでいたので、最後はソ連との戦いになった。






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